お父さんの作文 1998年度

1998年度

1999/03 さくら組保護者 萩原様

私の子供のころ

私は、鷲宮町で生まれ育ちました。
私が幼少年期を過ごしたころ、家のまわりは田んぼと畑だらけで、歩いて数分くらいかかる鷲宮小学校が見えるほどでした。

そんな中で子供のころの遊びといえば、近くの川で魚を釣ったり、中に入ってザリガニを捕ったり、稲刈りの終わった田んぼで近所の友達と野球まがいのことをしたりしていました。

小学校の頃、男の子たちはドッジボールに夢中になっていました。
最初の頃私はあまり得意ではありませんでした。ボールが飛んでこない方に回り込んだり、人の後ろに隠れて狙われないようにしたりして、ボールにさわらないようにしていました。
ある日の放課後、近くの空き地でクラスの友達と遊んでいるうちに、誰からともなくドッジボールをやろうということになり、私も嫌々ながら一緒にやることになってしまいました。 ところがゲームが始まってまもなく、私は1メートルも離れていないところから投げられたボールを、しっかりとキャッチしてしまったのです。その瞬間、頭の中でなんともいえない自信のようなものがわいてきました。
それからというもの、ドッジボールをやるときは自分から進んで人の前に立ち、ボールを受け、思いっきり敵側に投げ込むようになりました。

なにごとも努力なしにうまくいくことはないと思いますが、自信を持って物事に向かっていくことも大事なことだと考えるようになりました。
子供たちにも努力することを惜しむことなく、自信を持って生きていって欲しいと思います。

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1999/02 もも組保護者 大沼様

私の子供のころ

私が子供の頃は両親が商売をしていたこともあり、いつも家には父・母の二人ともいました。ですから自分の親が家にいるということは当たり前のことであり、いつも母とは接していることができました。

暴れん坊だった私は、店が忙しかった時には奥の柱にひもでつながれていました。また夏の暑い日などは商店街をパンツ一枚で走りまわり、遊んでいました。
私はその当時、東京の葛飾に住んでいました。(「フーテンの寅さん」で有名なところですね)

年長さんになった頃のある日、近所の小学生たちと一緒に江戸川の河原まで遊びに行き迷子になってしまいました。
両親も日が暮れても帰ってこない私たちをずいぶんと捜し廻ったようです。
ところが、しばらくするとパトカーに乗せられ、私たちは大喜びで帰ってきたものです。今でも子供たちが「犬のおまわりさん」を歌ったりするとその時のことが思い出されます。

こんな子供時代だった私ですが、常に両親に暖かく見守られながら育てられていたことには大変感謝しています。なんて幸せだったのでしょう。
現在、我が家では夫婦そろって仕事に出ています。
私は子供たちの起きる前には出かけてしまい、帰ってくる頃には二人とも眠っていることもあります。
また、出張などで家を空けることや、休日出勤ということもあります。
自分の子供時代に比べて、我が娘たちには寂しい思いをさせてしまうこともあります。あまり良い「お父さん」ではないかもしれません。

同居している私の母、そして私同様に仕事に出ている妻が何くれとなく世話をしてくれているのが幸いです。
ですから、私自身は娘たちには甘くなりがちですが「当たり前のことを、当たり前にできるように」娘たちを躾けていきたいと思っています。
これからも何かとお世話になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

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1999/01 もも組保護者 菊池様

私の子供のころ

私の故郷は、雪が多く降るところでしたので、通学も大変でした。
近所の人たちが集まり、雪かきをして道を作ります。それでも歩くと雪の中に体が半分ほど埋まってしまうこともありました。

そんなところでの遊びは雪だるまを作ったり、かまくらを作ったり、冰ついた田んぼでスケートもどきをしたりすることが多かったと思います。
そりも作りました。都会の子供たちとは違う体験をした幼いときでした。
また、日に日に雪が解けて春がくるのが待ち遠しくこたつの中で眠ったものです

春は、人も草木も動物も忙しくなります。
家の外に出て山野を歩くといろいろな春に巡り会うことができました。自然がそのまま話しかけてきて、自然に話しかけると答えてくれる。
皆様も春になったら外に出て、さまざまな春と出会えたらいかがでしょうか。

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1998/12 もも組保護者 田村様

私の子供のころ

私も両親共働きの保育園児でした。娘が四歳となり、自分の25年前を顧みますと、ずいぶん先生の手を焼かす悪ガキでした。

自宅まで3キロはある道のりを勝手に帰ることはたびたびで、当時平屋建ての保育園の屋根には登る、果ては探検ゴッコと称し、床下に潜り込んでは先生方に心配をかけていました。

そのころお尻をたたかれるのはあまい方で、何度もゲンコツをされたのは今でも記憶に新しいところです。今想えば、親に甘えられない寂しさから、わざと悪いことをして先生の気を引こうとしていたのでしょう。

今では娘を叱る立場にありますが、「叱るは教える、怒るは嫌う」と言われるように「叱る」ことがいかに難しいことか分かりました。
娘の教育については「して見せて、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かず」という言葉を大切にしています。 教育信条という格好のいいものではありませんが、娘とともに勉強していく上でちょうどよい言葉かも知れません。

娘も保育園では、悪ガキの親玉として先生方を困らせていると思いますが、これからもよろしくお願いいたします。

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1998/11 もも組保護者 高橋様

私の子供のころ

親父となり、妻と子供二人を連れて、15年ぶりに戸田橋の花火を見に行きました。遠い昔を懐かしく感じたのは言うまでもありません。土手も広く、ダンボールを持ち寄っては、豪快に滑り降りたものです。生まれたのはベビーブームの頃で、同世代も多く、どこからともなくそれなりの人数が集まりました。

今のように電話で約束など必要のない時代でしたね。
もっぱら野球一筋でした。最近ではサッカー少年が増えてますが、昔は誰もが野球帽をかぶっていた記憶があります。自分たちで知恵を出し合い、ルールを決め、それを守り、チームを分け、遊ぶというより戦いの日々でした。

遊びの中で、知らず知らずのうちに協調性や創造力、正義感、根性だとか優しさを養っていたようですね。それはファミコンでは得られません。
時には野球以外の遊びにつきあったり、気が合わないヤツとも同じチームで、いつの間にか認め合ったり、今では大切な思い出です。
時を知らせるチャイムもなく、ボールが見えなくなるまで一つの目安でした。
雨でない限り「また明日な…」そんな視線を背中で受け止め、満足気な男友達の顔が今でも浮かんでくるようです。

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1998/10 うめ組保護者 田中様

私の子供のころ

公園などという施設はなく、空き地や原っぱに子供たちが集まり、自然と遊び場ができていった感じでした。

そこに幼稚園児から小学生、中学生まで、年に関係なく入り乱れていろんな遊びをやるんです。
パッチ(関東でいうめんこ)、ビー玉、コマ、道具がなければ地面さえあればできる陣取り遊び。 木登り、セミとり、ザリガニつり等々。しかもひとつひとつが半端でなく遊び込むんです。
遊びそのものが勝つか負けるかの競技的なものが多く、負ければ自分の道具を取られるのがあたりまえ。腕をあげないと年上の子供らは遊んでくれない。そこで、自分より年下の子をだましながら資本を得、年上の子の技を見ながら腕を磨く。
うまくなれば年に関係なく一目おかれ、遊びの誘いも増えるわけです。
自然に社会の縮図がそこに成り立っていたんですね。

そして、遊び場に大人の姿はほとんどなかったような気がします。兄弟も多い時代で、大きい子が自然と小さい子の面倒を見るのがあたりまえでした。
子供が何かやる前に「危ない」と止めてしまう今では、考えられないほど傷の絶えることがなかった時代です。

 

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