お父さんの作文 2003年度

2003年度

2004/03 さくら・すみれ組保護者 加藤様

男の子育て

本格的な少子化の時代に入り、男も育児に参加しようという機運が高まっています。ましてや、私はシングルファーザーという立場で、子育てという大きな壁に直面しているところです。

最近のメディアで子育ての風潮を見ていると、しばしば疑問を感じることが多くなりました。
子供達の置かれている環境も、私が子供のころと比べ大きく変化し、なかなか昔のような教育も通用しない時代になってきていると思います。まして仕事で、子供と接する機会がなかなかとれず、ただ上辺だけの優しさをだす父親になっているのかもしれません。しかし、本当の子供の幸せを考えると、時には「頑固親父」であり、また「物わかりの悪い男」でなければならないように感じます。

子供を産み、母乳を与えることは女性にしかできないように、男には男にしかできない子育てがあると思います。
まだまだ未熟な父親ですが、子供が一歩一歩成長していくように、私も一歩一歩成長しながら子育てをしていきたいと思っています。

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2004/02 たんぽぽ・うめ組保護者 佐々木様

私の子供のころ

私のふるさとは岩手県です。
子供のころは家が山に囲まれていたこともあり、夏は川遊び、冬は雪遊びと毎日外で遊んでいました。

特に夏の川遊びは大好きで、家の前に流れている川で毎日のように夕方まで魚を捕っていました。今ほど川も整備されておらず、エサとなる虫取りから始まり、手作りの網を持ってカジカやイワナなどを取っては家に持って帰っていたものです。

冬も雪が降るとスキー板をつけて斜面を利用して滑ったり、そりをしたりと今思うといい思い出になっているなと感じます。

今でも帰省すると夏は必ず魚釣りをしてきます。息子も一緒に行きたがるのですが、まだ自分一人で楽しみたいので連れて行きませんでした。でも今年の夏は子供と二人で一緒に魚釣りをしようかと思っています。

また私は小学校を卒業する頃には身長が168センチと大きく、子供も親に似て大きく成長しています。でも私はスマートだったのですが…

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2004/01 つくし・すみれ組保護者 巻島様

日常に感謝

毎朝家は戦争です。
もうすぐ3才になる息子と1才の娘を保育園に預け、仕事に行くために妻とともに一家4人7時20分に出発します。
うれしいのは子供たちが今まで一度も保育園に行くのを嫌がったことがないことです。いつもニコニコと「せんせいのとこいこう!」という息子を見るたびに、保育園の先生方に頭が下がる思いです。
それでもたまに熱など出されると、毎日当たり前のように登園できることのありがたさを痛感します。

普段忙しさに追われていると怒らなくてもいいことに腹を立てたり、もっといろいろとできるようになってくれたらいいのにと思ってしまいます。産まれてきた時は五体満足であったことにただただ感謝していたはずなのに、だんだん欲が出てきてしまいます。

もう一度原点に返って日々の生活を見直し、子供と向き合っていきたいと思います。

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2003/12 さくら組保護者 小林様

母親の愛情

私は3人兄弟で、姉と双子の兄がいます。今思えば私が小さいころの母は、家計を助けるためパートで働き、家に帰ってきてからは家事をしてのんびり休む間もなかったのかも知れません。本当にご苦労さまでした。

小さいころの母との思い出としては、良くホッペタにチュッとキスをされて、なんだかベタベタしていてやだなーと思っていました。でも、これはおまえを愛しているよーという愛情のしるしだったのだなと思います。
また、ある日の夕食で食べたトマトがたまたまうまかったのが、母は私の好物と勘違いし、良くトマトを出すようになりました。ついつい否定することができずに今まで来ています。

父となってしみじみと思うには、子供の情緒豊かな成長には母親の愛情が一番重要だと考えます。また、日頃から子供たちに元気と愛情で接してくださっている園の先生方にも感謝しています。あと少しですがよろしくお願いします。
母を思い出す機会を与えて頂き、ありがとうございました。

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2003/11 たんぽぽ組保護者 夢川様

母の思い出

私は男3人の長男として千葉の松戸市に産まれ、その後柏市で育ちました。

男3人ということもあり洗濯物も多く、やんちゃな私たちを育てる母の家事はさぞ大変だっただろうと思います。

中学生になり思春期を迎えたときは、母に反発をしたり迷惑をたくさんかけたりもしました。でも今思うと、母はどんなときでも私をあたたかく見守ってくれていたような気がします。

今は兄弟3人それぞれ家庭を持ち、母の肩の荷も少しは楽になったのではないかと思います。
実家に孫たちが集まり、幸せそうな母の笑顔と声を聞くにつけ、今後もたびたび訪れ秀太を見せて親孝行をしていきたいなと思います。

いつまでも母には元気でいてもらい、秀太をはじめ孫の成長を見守って欲しいと願っています。

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2003/10 すみれ組保護者 上山様

わたしの母

私の母を一言で言うと働き者といった印象があります。私が幼少の頃、父と離婚し兄弟3人を働きながら育ててくれました。

今思うと大変な苦労だった事と思います。私は長男だったので下の弟や妹の面倒を見ることが多かったのですが、必ず母が仕事から帰ってくると母の「ありがとう。助かったよ」といってくれた一言は今でもよく覚えています。子供ながら私も「がんばらないと」とよく思ったものです。

そんな私も思春期には反抗し、いろいろな迷惑をかけ、母を困らせたことがありましたが、今では母を尊敬し誇りに思っています。
母本人に目の前では言えませんが、これからも元気でいてくれることを願っています。

私もあと何十年後かに息子が私のことを、私が尊敬した母のように尊敬される父親になれるよう頑張りたいと思っています。

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2003/09 すみれ組保護者 針ヶ谷様

母と孫

私の母を今思い返ってみると子育てはさぞ大変な日々だったことでしょう。

中学卒業までは自営でラーメン屋をやっており、父と母は接客出前に子育てと大忙しの毎日、そんなとき父が突然他界し食べ盛りの高校生の私を母一人で育ててくれました。

何年か母子二人の生活をした後、私が結婚し新たな家族が生まれ、母から祖母になってしゃべれるようになった孫に「ばーちゃん」と呼ばれてニコニコしている母を見ていると、孫の顔を見せられたことに少しは親孝行できたかなと思っています。
そしてつい先日第二子目が産まれる時に長女を母に預けたとき「孫の面倒は大変だけどすごく楽しいしうれしい」と若返った声で言ってくれました。

現在私よりももうすぐ三歳になる長女と生まれたばかりの長男に夢中のデレデレばーちゃんになり、いつまでも孫と楽しい時間を過ごしてほしいと思います。

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2003/08 つくし・すみれ・うめ組保護者 池田様

わたしのお母さん

私は高校まで地元鷲宮高校で育ちました。昔は今と違ってのどかで静かな町でした。友達とザリガニ釣りをしたり野球やサッカーなどをして遊んでいました。

私が5歳のになるころ父を亡くし、母一人でここまで育ててくれました。幼少のころから母は内職やパートをやりながら私を高校まで出してくれました。

私が母親で一番印象に残っていることは、小学校4年生のころスポーツ少年団(サッカー)に入団していたときのことです。試合ともなると必ず顔を出してくれました。6年生になると役員にまでなり、私たちのために活動してくれました。試合で私が得点を決めると誰よりも大はしゃぎし、私が失敗すると誰よりも大きな声で怒鳴り、慰めてくれました。

そんな母も今は3人のおばあちゃんになり昔の面影は消え、休みの日になると3人の孫の顔を見に来ては公園などで遊んでくれています。これからも元気で明るい母で長生きしてもらい、今まで苦労してきた分今度は私たちが恩返ししていきます。
これからもよろしくお願いします。お母さん。

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2003/07 うめ組保護者 出塚様

母に感謝

私は一才の時父の仕事の都合でここ鷲宮町に引っ越しをしてきました。その翌年から私と姉は鷲宮保育園の園児として入園しました。入園当初は園が近くなるとグズリだし、困った顔をした母の顔が今でも目に浮かんできます。

私が小学校に入るとすぐ父の体が不自由になり、母はに入院中の父に付き添いながら私と姉を内職ひとつで育てあげてくれました。父が他界した後も私の甘さで母を頼ることが多々あり、未だに母は苦労を共にしていると思います。

今は母はパートに出ている妻に代わって自分の仕事をしながら私の子供たちの送り迎えをしてくれています。子供たちもおばあちゃん大好きで母になついているのでとても感謝しています。

昨年保育園に行く機会があり、顔を合わせるとすぐに園長先生が私を卒園時だと覚えていてくれてとてもうれしく思いました。今二人の子を保育園に預けていますが、どちらも保育園に行くのが大好きです。これも園長先生をはじめ諸先生方が熱心に保育に取り組んでくれているからだと感謝しています。
今後もご指導のほどよろしくお願いいたします。

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2003/06 さくら組保護者 荒井様

母を鏡に

都内で生まれた私は江戸っ子気質の父親と、その一本気を補う母親の間で育ちました。
母は和裁、洋裁、料理、習字、三味線と多趣味で、容姿をのぞいては誰にでも自慢できる母でした。

母に親孝行をしたことといえば、悪態をつき、心配をかけ、それがボケの防止だと勘違いしてたことくらいでした。

その母も若くして病気にかかり、あっという間に他界してしまいました。
正直なところこれから親孝行をと考えていたころでした。私の結婚のこと、孫のこと、持ち家のこと、まだまだやりたいことはたくさんあったでしょう。そのどれもかなえることができなかったことに悔いが残ります。

ただ私たちにも子供ができ、すくすくと育って行くにつれてその母の良いところを受け継いでくれたようで、今更ながら感謝しています。
今後はその母を見習い、子供達に接していければと思います。

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2003/05 さくら組保護者 岩辺様

母の思い出

私は男ばかりの4人、しかも年子の末っ子として生まれ育ちました。

毎日が戦争のように「おはよう」でけんかが始まり、近所の池でザリガニ釣り大会、みんなドロまみれで母の洗濯も大変なことだったと思います。
忙しい合間をぬって、破れたズボンをつくろったり、おやつも大きなおむすびを作ってくれました。家業はギョーザの卸をやっていましたので、つまみぐいは毎度のこと、見つかっては怒られ、それでも母の作ったギョーザがおいしくてやめられませんでした。

それから今は数少ない銭湯も楽しみのひとつでした。母と手をつないで歌を歌いながら歩き、風呂から出ると冷たい牛乳をグーと飲みほして・・・。
そんな母も昨年他界してしまいましたが、私も子を持つ親になって子供一人でさえこんなに大変なのに4人もなんて頭の下がる、いや、とても感謝の気持ちでいっぱいです。

園の先生方には、母について思い出すこのような機会を与えていただき、ありがとうございました。

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2003/04 うめ組保護者 鈴木様

わたしの子供のころ

私は小学校のころ東京の練馬区のマンションに住んでいました。近所付き合いの良いマンションで、みんなが家族のように思っていました。

私は元気のありすぎる子供だったので、よくいたずらなどをして近所の大人たちに怒られていました。しかし私が自転車置き場に段ボールで小屋を作り、2、3日寝泊まりしていると、食べきれないほどの差し入れを持ってきてくれたり、私がウサギを拾ってくると、動物は禁止されているのに近所の人たちで世話をしてくれたりしました。とても温かい思い出です。

鷲宮保育園の先生方はその温かさを持っている先生方なので、子供たちがその温かさに触れることができることをとてもうれしく思っています。風邪を引いたりすると親のように心配してくれます。これからも暖かく見守ってください。

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