お父さんの作文 2004年度

2004年度

2005/03 さくら・すみれ組保護者 梶様

私の両親

私は五人姉妹の三女です。
自分が親となり姉弟にいろいろなことを相談し合えて、身内が多いのは本当に心強いです。

父母は自営業をしながら私たちを育ててくれました。
今母親となり、子育てをしながら仕事をするのがどれだけ大変なのかがよくわかり、両親には感謝の心でいっぱいです。

四番目の妹は、心臓に軽い障害があることを妊娠しているときからわかっていたそうですが「授かった命を大切に」という両親の思いで生んでくれたのです。休みの日には遊園地や買い物へ連れて行ってくれたり、本当にかわいがってくれました。

自分がもらった両親からのいっぱいの愛情をわが子たちに注ぎながら人の心がわかる子になって欲しいと思っているこの頃です。

line3

 

2005/02 うめ組保護者 西谷様

私の子供のころ

私は久喜市に生まれ育ちました。

お寺の中にあった幼稚園の私たちさくら組みの悪ガキは、墓地でのかくれんぼ、鬼ごっこに夢中でした。他のクラスのばら組、ゆり組みの友達も一緒になって墓の中を走り回っていたことを思い出します。先生に怒られてもほとぼりがさめたころには塀を乗り越え、また怒られ、逃げ回っている毎日でした。

三クラスだったはずがいつしか黒組というクラスができ、狭く暗いお堂のような部屋に私たちは閉じ込められ、泣いて謝るまで出してもらえない、というようなお仕置きを何度も受けました。

当時の先生方はとても怖く、私もよく追いかけられ庭中を走り回っていましたが、そうたやすくつかまることはありません。先生は怒るのも疲れ「○君にはかなわないね」といつも根を上げていたことを思い出します。怒られながらも時にはほめられ、先生方も私たちを悪ガキによくつきあっていただき、とても楽しい時間を過ごしていたように感じます。

私の子供にも、多くの友達に囲まれ楽しく遊んだりいたずらをしたり、ほめられ怒られながらもたくさんの経験をしてほしいと思います。そして私自身も時には昔を思い出し、子供の目線で一緒になって過ごす時間をつくることが大切なのではと感じています。

line2

 

2005/01 うめ組保護者 西條様

お正月の思い出

正月で思い出すのは、火鉢で焼いたおもち、そして若き日の叔父たちの笑顔でしょうか。

私の父は地方の農家の次男坊でした。今ほど気楽に帰省することもままならない時代でしたので、正月になると東京や横浜などで働く叔父達が川崎の我が家に集まり、にぎやかな正月を過ごすのが慣例となっていました。

寒い朝に母がおせちの準備をする音で目を覚ますと、必ず叔父の誰かがうれしそうに火鉢でもちを焼いたことを覚えています。何もかも今よりはるかに貧しい時代でしたが、貧しいだけに人と人が近くに寄り集まって、助けながら生きていたような気がします。

昨今ではかつてのような大家族は姿を消し、正月に大勢が集まることも少なくなってしまいました。今の子供達は大人になったとき、正月に何を思い出すのでしょう。
鷲宮保育園の子供達は、先生方の笑顔とともにもちつき大会などを思い出すかも知れませんね。

line1

 

2004/12 さくら組保護者 中野様

私の母

私の子供のころの母と言えば専業主婦だったものの、常に忙しくしていて放任主義で、勉強しなさいと口うるさく言われた事はありません。のびのびと育ててくれました。

そんな母も4~5年前に脳出血で倒れ、一時は寝たきりになるか良くても車いすと言われ、大層心配いたしました。しかし母の持ち前の負けず嫌いと根性でつらいリハビリをがんばり、今では4点杖をついて歩けるほどに回復できました。
孫のために長生きをしたい一心で、好きで毎晩のように飲んでいたお酒もパッタリとやめ、自分なりに健康管理をしているようです。母は母で子供やかわいい孫達に迷惑をかけないよう気を使っているのでしょう。

前とは違い、体があまり自由に動かせなくなってしまいましたが、リハビリから始めて今では趣味となったビーズアクセサリー作りや人形作りを生かして楽しく過ごして欲しいと思います。

line12

 

2004/11 さくら組保護者 根岸様

私の子供のころ

私のふるさとは加須市です。
子供のころは近所の小・中学校へ通うお兄さんたちと一緒に公立幼稚園へ行きました。園までは遠く、歩くのが速いお兄さん達について行くのはなかなか大変でした。車はほとんど走っていませんが、班長さんは私たちを兄弟のように面倒をみながら連れて行ってくれました。朝早くから集合場所でボール投げや縄跳びなどをやり、楽しい一日が始まりました。

休日になると打ち合わせていたかのように虫取りや魚釣りの場所に集まっていました。そこで昼から遊ぶ内容が決まり、子供心にも準備をしたものでした。

今のようにおもちゃがなく、家にいたら外で遊べと言われる時代でした。自然と上下関係の中で育っていました。できないことがあればお兄さんたちがやって見せ、やらせてみる。何度でも挑戦し、できたときにはほめる。とても幸せな環境であったと思います。

今保育園で季節ごとに自然を体感する遊びや地域との交流を行っていただき、自分が経験したことを子供に引き継ぐことができることを感謝すると同時に、家庭でもおおいに豊かな経験をさせていきたいと思います。

line11

 

2004/10 もも組保護者 越前谷様

わたしの故郷

私は北海道の函館市で育ちました。冬が長く、夏が短いという環境でしたが、いつも外で遊び回っていたのを覚えています。

子供のころから動物が好きで、ニワトリを飼ったり犬を飼ったりしていました。
そういう中で感じたさまざまな感情や、世話したり成長を目の間あたりにする喜びをわが子にも教えてやりたいと思っています。

今わが家では庭に犬、部屋に猫、玄関にはカメを飼っていてなんともにぎやかです。
夏場はカブトムシやスズムシも飼育しました。
子供も一緒にえさをやったり水をかえたり散歩したりしますが、なんとなくですが自分より小さなもの、弱いものを慈しむ気持ちを感じるときがあり、喜ばしい限りです。

鷲宮町の自然や保育園の先生方をはじめ人々の温かさの中で、心身とものびのびと成長していってくれることを願っています。

line10

 

2004/09 たんぽぽ組保護者 大谷様

わたしの故郷

私のふるさとは愛する鷲宮町です。
私は幼いころから釣りが好きで、夏休みなどには一日中でも外で遊んでおりました。青毛堀の川や近所の池にはコイやフナがおり、少しでも大物をと夢中になっておりました。釣りのほかにも昔はカブトムシやクワガタ等がこの辺でも採れ、仕掛けを工夫し、友達と競い合って遊んでいたものです。

最近では川も池も水が濁り、虫も採れなくなってしまいました。それでも娘には少なくなった自然の中でおおらかに素直に育ってほしいと願っております。よちよちとしか歩けなかった娘も先生方のおかげで、いつのまにか跳んだりはねたり走ったりしています。その後ろ姿を見ているだけでも頼もしく、たくましく、うれしく思います。

私の故郷は日々変わりつつあります。できるだけ娘の記憶に新しい時代の故郷の楽しい思い出が残るようにと願ってやみません。

line9

 

2004/08 すみれ・さくら組保護者 中山様

わたしのお母さん

私は長野県の長野市で生まれ育ちました。
小学校二年生の時に父が亡くなり、母は女手一つで私と一才年上の病弱な姉を大事に大事に育ててくれました。

母は俳句が趣味で、日本各地を回っていろいろな自然を見ながら創作しており、創作仲間と一緒に中国やモンゴルなど海外へでかけて句を創る事もありました。さすがに自然をよく観察しているだけあって、鳥や木や草の名前などよく知っています。長野へ帰省し一緒に山歩きをすると細々わからない花や草木の事を教えてくれます。 子供達の誕生日などに孫に対する思いを込めた俳句を墨絵とともに送ってきてくれたりもします。

母が鷲宮保育園の発表会を見に来たとき、ことば遊びの中で俳句を情操教育の一環として取り入れていることにとても感心し、自分の同人誌にそのことを載せた事もありました。

様々な苦労をしてきた母ですが、いつまでも俳句芸術という生きがいを持って長生きして欲しいと思います。

line8

 

2004/07 もも・さくら組保護者 門脇様

田舎遊び

私のふるさとは秋田県です。マタギ(熊の狩人)の郷で育った自分は今の子供と違い、いつも外で走り回っていました。

【川遊び】
学校の先生の注意は無視。子供達だけで魚を突きによく行きました。カジカ・ウグイ・ヤマメ・イワナ・マスなどをとったり、釣りをしたりと薄暗くなるまで遊んでいました。

【虫とり】
いつも都会の子供はデパートで買うんだって「おかしいんじゃない?」というくらいカブトムシ・ノコギリ・ミヤマ・コクワなど最高で五十匹、家の虫かご(特製)にいたことがありました。時々逃げたカブトムシが布団の中にいたりと、カブトムシは「いらない」「売るほど」という言葉が出るほど持っていました。

【危険な遊び】
ヘビに爆竹食わせたり、採った魚を筒に詰めて爆竹を入れ爆破。など悪いこともいっぱいしました。

そのほかにもたくさんの遊びがありました。今のように与えられた遊びではなく、楽しむために自分達で考えた遊び。本当に楽しかった。この話を書きながらドキドキするほど懐かしく、いい思い出です。

line7

 

2004/06 うめ組保護者 白田様

私の子供のころ

私のふるさとは宮城県です。
自分たち子供のころは、今とは違いテレビゲーム、ファミコンといった高価なものはなく、自然の中にあるものが遊び道具でした。特に魚釣りやザリガニ釣り(竹の棒に糸をくくり、カエルかスルメをエサに釣る)近所の池や川で釣っていました。カエルの方が食いつきがよかったのを覚えています。それこそ朝から晩までやっていました。
それと、メンコやベーゴマ遊びは定番でした。メンコは相手のを裏返しにしたら勝ちで、ベーゴマは洗面器やバケツにビニールをかぶせ、その上で回し外に出たら負けと、単純な遊びでしたが、熱中して遊んでいました。コマは鉄でできていて、自分でヤスリで削って薄くしたり、文字の入っている所にクレヨンでアレンジしたりと、とても楽しかったことを思い出します。

今の子供たちのようにテレビゲームでは、コミュニケーションは学べない気がします。復活!懐かしの遊び!せめて自分の子供には伝えたいと思うこの頃です。

line6

 

2004/05 たんぽぽ・さくら組保護者 瓜生様

幼少時代

私は茨城県の北茨木市の山奥で小学二年生まで暮らし、三年生になるとともにこの鷲宮町に引っ越してきました。

その当時、よく近所の友達と誘い合いくぬぎ林でクワガタを捕まえたりベーゴマやメンコなどをして遊んでいました。

こちらに越してきてからはサッカーや野球などをして遊びながら、学校の先生(体育教師)になるのが夢で、毎日走り回っていたのを思い出します。

結局先生にはなることはありませんでしたが、子供達にもひとつの夢を持ちながら成長していってもらいたいと思っています。

line5

 

2004/04 さくら組保護者 小島様

幼少時代

私は一人っ子の長男として平凡な家庭で育ちました。
小さい頃は兄弟がほしいと思ってさびしいときもありましたが、今自分が親になり振り返るとずいぶん父母に甘え、わがままだったなあと実感します。

仕事が忙しい中でも必ず見に来てくれた運動会、授業参観。いつもいっしょに入ったお風呂。笑いながら食べたおいしい夕食。自然のことだけどいつまでも心に残る父と母のあたたかさです。

これからはこの子達に少しでもあたたかい記憶が刻まれるように、今度は自分が父母に培われてきたことを同じようにしてあげたいです。

line4