身近なウォッチング 15

薫藤園 平成26年秋

出井熊吉翁の顕彰碑

羽生市文化財保護審議委員 間仁田 勝

出井熊吉翁の顕彰碑羽生市下羽生地内に、羽生市初代市長出井兵吉の父である出井熊吉翁を称える2つの顕彰碑があります。

厳島神社境内に存する明治38年(1905)に下羽生住民により建立された「出井翁寿頒碑」と、旧出井家居宅跡横の岩瀬落沿に存する明治28年に北袋住民により建立された「新渠碑」です。

出井熊吉翁は、幕末の天保2年(1831)8月15日に武蔵国埼玉郡下羽生村で生まれました。

熊吉の幼少時代は、天保4年頃からの天候不順により始まった天保大飢饉のさなかで、全国的な凶作による米価や物価の高騰、それに伴う百姓一揆等が起こって おり、さらに大塩平八郎の乱を始めとする騒乱が全国に頻発するなど、農民にとって厳しい時代でした。天保12年になると老中水野忠邦は天保改革の名のも と、農業に重きをおく政策を次々に進めていきました。

そんな中、育った熊吉は、身を以て感じたのでしょう。所有農地を徐々に増やしていきました。

父の治郎兵衛が明治8年(1875)11月に死去し、熊吉が、その父から受け継いだ土地は孫の治人氏によると3町8反であったそうです。それが明治18年 4月の『羽生町連合内最上農名簿』では、約4倍の15町3反1畝2歩と、清水右六(179反)、入江冶兵衛(157反)に次ぐ3番目の大農家となっていま す。わずか10年です。その後、清水家(清水卯三郎の実家)の没落に伴い、その土地を引き受けるなど、最盛期には60町を所有する大資産家となり、羽生駅 から自己所有の土地が自宅まで続いたと言われています。しかし、自らは決して守銭奴ではないと顕彰碑に記しているように、その私財を投じ、村の貢献に積極 的に努めている。

熊吉は、3つの大きな功績を残しています。まず、用水路の新設です。下羽生村の葛西用水路左岸地域は、排水としている岩瀬落が北袋村において下流に堰を設 け用水として利用していることから、排水状況が悪い状況でしたが、熊吉は、堰の下流に葛西用水路から北袋村へ直接つなぐ水路を新設し改善を図りました。2 つ目は、葛西用水路の橋の架け替えです。当時、葛西用水に架けられていた橋は狭い土橋で、通行には危険な状態であったので、熊吉は、下羽生村内にある3つ の橋すべてを、馬や大八車が楽に通れるような幅9尺の広い丈夫な石橋に架け替えました。

そして、熊吉の最も大なる功績と言われているのが、下羽生谷耕地を全面的に耕地整理したことでした。明治32年に耕地整理法が制定されたのを機に、下羽生 耕地整理組合を結成、自ら理事長となり、明治40年2月に着手しました。勿論、この耕地整理も、水路新設及び橋の架け替え同様、私財を投じての施工でし た。しかしながら、耕地整理完成なかばの明治40年7月7日、熊吉は惜しくもこの世を去ってしまいました。享年76歳でした。この耕地整理も大正6年 (1919)に完成しています。