誕生会・身近なウォッチング16

薫藤園 平成26年冬~27年春

11月誕生会

11月17日誕生会を行いました。誕生者のご家族の方が素晴らしい歌声でカラオケを披露し、その後薫籐園の「前川清」が登場!バックコーラス付きで「秀安は今日も晴れだった」を熱唱しました。アンコールの声がかかるほどの盛り上がりを見せた誕生会でした。

 

12月誕生会

12月16日誕生会を行いました。誕生者の方1人ひとりにカラオケで歌を披露して頂きました。恥ずかしいとおっしゃりながらも熱唱してくださいました。盛り上がった所で今子供たちに大人気の「ようかい体操」を職員が踊り、一緒に踊る方、大笑いされている方と、とても楽しく、にぎやかで盛り上がった誕生会でした。

 

1月誕生会

1月20日誕生会を行いました。今回はシルバー川柳でお祝いカルタを行いました。
初めてのことで戸惑っておりましたが徐々に慣れた様子で誕生者7名の方に正解の札を見つけて頂き「あたり~!」という元気な声と笑顔で楽しまれていました。

 

東棟誕生会

12月11日に小川益子様の誕生会をリビングで利用者さまと職員、息子さん、お孫さんも参加して頂き楽しい誕生会をする事が出来ました。利用者様と一緒にどら焼きを作り生クリーム、あんこをはさみ出来立てのどら焼きを皆様と一緒に召し上がりました。アルバムと似顔絵をプレゼントさせて頂きとても喜んで頂きました。
今日は楽しかったよ。ありがとうねと言って頂きとても嬉しく思います。

 

身近なウォッチング⑯

羽生市文化財保護審議委員  間仁田 勝

羽生最初の富士塚

羽生最初の富士塚羽生市須影に通称「仙元様」と言われている富士塚がある。小高い丘で、頂上には、冨士山頂から分祀された「仙元大菩薩」とともに、お鉢廻りが設置されている。
富士塚とは、富士講の人たちが、富士山の溶岩や土を母体に、富士山に模して築いた塚で、江戸時代に多く造られた。安永8年(1779)、植木職人の高田藤四郎が富士山から持ち帰った溶岩で、高田馬場の水稲荷神社境内に築造した冨士塚が最初と言われている。
先達に率いられ富士山を登拝することにより、大願成就を願う冨士講信者達にとっては、本物の登拝と同じ御利益があるとされた冨士塚は大いに喜ばれ、各地の富士講において富士塚が築造されるとともに、仙元大菩薩が勧請されていった。
室町時代末期頃から盛んになった冨士山登拝を講集団、いわゆる冨士講にまで高めたのは、江戸時代前期の修験行者であった長谷川角行であった。それを講集団として組織化したのが角行5世弟子の食行身禄であった。江戸時代後期には「身禄講に非ざれば富士講に非ず」といわれるようになっていた。天保期になると冨士講が増え、「江戸は広く八百八町、講は多く八百八講、江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人」といわれるまでになった。その傾向は、羽生領においても例外ではなかった。
江戸時代末期、羽生領加羽ケ崎村に生まれた諸井勇吉は、食行身禄の2世弟子で加須に「丸正講」を設立した吉田仙行に入門、その直系流派のみに許される行名を受け、「諸井勇行」となった。
諸井勇行は、羽生地域での冨士講普及の為、講員有志とともに、旧蓮華寺(須影村の菩提寺)境内に富士塚を築造し、頂上に富士山頂より仙元大菩薩を勧請した。建立年代については、祠に記載されておらず確かなことはわからないが、建立者の筆頭に「諸井勇吉」の名が記されており、諸井勇行でなく諸井勇吉と記されていることから勇行の行名を受ける前、19世紀早々の享和または文化の時代の築造と思われる。
諸井勇行の子の2代目勇行は、丸正講から独立し、新たに加羽ケ崎村の加の字をとって「丸加講」を組織した。2代目勇行の孫の4世勇行は、嘉永7年(1854)に、須影富士塚の山頂にある「仙元大菩薩」を再建している。
当初は丸正講の印である「丸に正」の紋章が彫られていたものを、丸加講の印「丸に加」の紋章に変えるに際しての再建と思える。なお、この須影冨士塚は、現在は清水家の敷地内となっているとともに、清水家によって管理されている。