薫藤園の楽しい暮らし3- 2018 夏

薫藤園 平成30年春~夏

施設内研修

嘔吐処理勉強会

従来型介護士 中家里美

去年の12月末頃からインフルエンザによる胃腸炎が大流行しました。胃腸炎の嘔吐の感染力、インフルエンザの感染力はとても怖いです。
感染の拡大を防ぐ為に職員全員が正しい知識をもち 嘔吐処理の対応ができるように勉強会を行いました。職員の方々も模擬的な実践を行うことで、発生時に戸惑いなく処理が出来るよう毎年真剣に取り組んでおります。

 

ユニット 嘔吐処理勉強会

ユニット型リーダー 川上 誠

家族や友達、急に具合が悪くなって、もしかしたら嘔吐してしまう事だってあるかもしれません。そんなとき、あなたならどうしますか?
ここでは、家族というわけではなく、利用者の方が嘔吐してしまったらという想定で勉強会、講習を行いました。頭ではわかっていても、実際に体験してみると、なかなかその通りにはいかないものです。
今日の経験が、いざという時に役に立つ、知っていてよかったと思えるものになるといいと思います。

 

ユニット 入浴事故防止勉強会

ユニット型看護師 大塚元子

施設の重大な事故の発生が多く、注意しなければならないのは入浴介助です。
職員全員が二人一組になり、1人が利用者様の役、もう一人が介護者の役で、入浴するときの着脱、車椅子からの移動、立位保持の注意点などを確認し、浴室で実際に体験しながら勉強会を行いました。いつも使っているリフトの操作も、注意深く、真剣な顔つきで行っていたのが印象的でした。

 

身近なウォッチング25

須影中学校跡の碑

羽生市文化財保護審議委員 元薫藤園災害協力会会長 問仁田 勝

かつて須影運動公園の地に須影地区の学び舎であった須影中学校がありました。今回は、その話をしてみたいと思います。

明治20年(1887)、高等小学校が制度化したことに伴い、羽生地域においても、羽生町を中心として組合立の羽生高等小学校が設置されたが、大正9年(1920)には、生徒数も増え、手狭になったとともに、近くに学校をとの要望から、羽生高等小学校を廃止し、羽生・新郷・須影・川俣・井泉の各尋常小学校にそれぞれ高等科を設置して対応することとなった。
後に須影中学校となる須影尋常高等小学校高等科の誕生である。

戦時下の昭和16年(1941)に、一時期、須影国民学校高等科となったが、戦後の昭和22年には新たに学校教育法が制定され、尋常科は6年制の小学校に、高等科は3年制の新制中学校に改称され、義務教育が小学校・中学校を合わせた9年となった。

昭和22年4月1日、新制度による須影中学校の開校である。
初代校長は岡戸繁治氏であった。しかし、小学校の校舎の一部を利用しての開校で、職員室は6畳1間の狭い宿直室を借用、そこに校長・教頭を含む5人の教員が、子供達の使った裁縫台を机代わりにして寄り添うように座っていたという。
須影村役場においては、なんとか独立校舎を建設すべく、村議会に200万円の予算を計上、その上、敷地買収困難な場合は、字ごとに2反歩ずつ持ち寄り地交換をするという付帯事項を付けての可決であった。
建設場所は、村役場北の加羽ケ崎の三ケ谷戸の地、須影焼橋の東の地、そして須影小学校南西の山林地帯の3ケ所が候補とされた。
結果、教育環境も静かで最適の地などの理由により須影小学校南西の山林地帯に決定し、昭和27年7月17日に現須影運動公園の地に独立校舎を新築、落成式が挙行された。
当時は戦後の物資不足の中、材木も切符制であったことから、須影八幡社や田中神社の神木を譲ってもらっての校舎建築であった。校地は松林を切り開いた砂原で、一見砂漠の中の学校という印象であったが、学校の周辺の松林の景観はすばらしかったという。
昭和30年に校庭の土盛り工事が、昭和36年に体育館が、そして昭和39年に水泳プールが完成している。

そんな須影中学校も、昭和55年3月31日、市内の中学校を3校に整備再編する市の方針により閉校となり、南中学校に統合されることとなった。開校から33年間、そして卒業生は2520名であった。
閉校後の須影中学校の跡地は一部が住宅地として売却されたものの、大半が須影運動公園として残ることとなるとともに、翌56年には、昭和41年に新築された「須影集会所」に隣接した、かつてバスケットコート及び庭球コートであった地に須影公民館が新築された。

現在、跡地に残る「岩石園設立碑」(昭和43年建立)、「立志の像」(昭和50年建立)、そして閉校時に建てられた「須影中学校跡の碑」のみが、その面影を残している。