お父さんの作文 1999年度

2000/03 さくら組保護者 石崎様

私の子供のころ

現在我が家ではカブトムシの幼虫がスクスクと育っているはずである。・・・(年が明けてから確認はしていない。)
さて、大部分の男の子が、昆虫が好きなように、私も子供の頃は、夏になるとカブトムシやクワガタムシなど追いかけたものである。

小学校へ行く途中、三カ所の秘密の場所があり、(ちょっと経路からはずれる)毎朝、なんらかの成果があった。
一つは、Aさん宅の北側の大きなカシの木であり(ここは、今でもカブトムシやクワガタムシが捕れる。)主にカブトムシが毎日のように捕れた。しかし、ある朝、大きなスズメバチが一匹現れ、カブトムシを、捕りに近づけなくなってしまった。
二つ目は、Bさん宅の東側にあった木で(今は切られてしまっている)二日に一匹ぐらい捕れた。
三つ目は、Cさん宅の南側の木で(今もあると思う)ここはカナブンばかりだった。

当時は、虫ゼリーなどの専用のエサは無く、スイカやキュウリをやっていたので、あまり長生きしなかった。(去年買った本に、スイカはお腹を壊すのでやらないように、と書いてあった)
このためこの歳になるまでカブトムシの卵を見たことは無かった。

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2000/02 0才児・もも組保護者 石原様

私の子供のころ

小学校の時は、友達が皆、野球を選ぶ中、私はサッカーを選びました。当時は、サッカーをやっている友達があまりいなく、珍しいほうでした。

サッカーを選んだ理由は、友達のススメもありましたが、ボールの大きさが野球よりサッカーの方が大きかった為、扱い易いのでは・・・と言う単純なことでした。
練習時間は、小学校に通学する前の2時間 午前5時から7時まで練習しました。

夏は早起きも苦ではないのに冬は布団から出られず寝坊、母親に起こされ遅刻することもありました。練習が終わり家に帰って食べる朝食はおいしかったですね。

日曜日は別の小学校のサッカークラブや大宮市にある朝鮮学校のサッカーチームと練習試合をします。

練習を始めて3年が過ぎた頃、母親が病気で入院してしまった為サッカーをやめる事になってしまいましたが、今では良い思い出になっています。

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2000/01 さくら組保護者 植竹様

私の子供のころ

わたしが小学校だったころは、まだ住宅も少なくあちこちに空き地がありました。
確か家の側にも通称「あかつち」と呼ばれていた空き地がありました。そしてそこでの遊びは、何と言ってもソフトボールでした。
親から初めてグローブを買ってもらい、得意になって毎日のように遊んでいました。 ソフトボールをやるにはある程度人数が必要ですが、不思議なことに、いつもみんなが集まってきました。

そうそう、本当か嘘なのかは今でも謎のままですが、当時わたしたちが遊んでいると、これまた通称「大洋(今のベイスターズ)二軍」というおじさんまででてきたりして・・・(確かにプレーはすごく上手かったけど。)
何だか、今思い出すだけでも楽しくなってきます。

さて、今、小二・四のわが子を見ると、遊びに行くのも電話をかけてから、遊びは少人数でしかも家の中で、そんなことが多いようです。もっと子供らしく、のびのびと思いきり遊んで欲しいなと思うこの頃です。

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1999/12 うめ組保護者 塚越様

私の子供のころ

近頃の私は、釣りにはまっております。 沖釣りといって船で海の魚を釣るものです。
この釣りがここ幾年とても好きになったのも、子供の頃によく行った近所の川、沼での楽しかった釣りが心のどこかにあるのかも知れません。

今では、菜の花が咲くとき以外は目を向けることのない青毛堀、子供の頃は、泳ぐ魚が見えるほどきれいな川でした。
台風にもなれば水嵩が上がり、両側の道路まで水が上がったこともありました。そんなときに近所の仲間たちと出掛け、素手つかみで、鯉やナマズが取れたものです。
水嵩が減ったときには、竹竿にタコ糸、その先には、スルメイカをくくり付け、ザリガニ釣りに夢中でした。時には、近所の大人が川魚をとるべく仕掛けた網みカゴを、川からすくい上げ、その中に入った大量の魚に感動したのもつかの間、大人に見つかり一目散に逃げた愉快な思い出もあります。

私たちの子供の頃は、親から与えられた遊びの行動エリアが広かったのかも知れません。
時代の流れかも知れませんが、自分の子供を見ていると、昔よりも狭くなった遊びの行動エリア、その中で、いろいろな体験が出来るようもう少し広げてあげないと、少しかわいそうな気もします。

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1999/11 さくら組保護者 合田様

私の子供のころ

「艱難は汝を玉にする」という言葉がありますが、子供の頃を振り返ってみると幸か不幸か、自分が玉にならなかったことを幸せに思います。

私が子供の頃(今も気持ちは変わらない)は、両親が長男長女で親戚も多く且つ初孫であったということもあり、大切にかどうか分かりませんが、比較的かわいがられて育てられたように感じています。(記憶はあいまいであるが?)
そして、このことが子供の頃の印象を希薄にしているのかもしれませんし、単に自己の記憶力のなさなのかも知れません。

とにかく、子供の頃の断片的な記憶の中で印象に残っていることは、お正月のお年玉の多さ(使った記憶はあまりない)や、幼稚園の運動会での輪くぐり競争の時、足は速かったが、輪をどう扱っていいのかわからず呆然と立ち尽くしたこと、また、公園でブリキ製の機関銃を持って走り回ったことや三輪車に乗っているときの怪我で病院の手術台に乗せられ、眼前に手術用の電気を見たことなどです。 総じて、平凡で、「私の子供の頃はこうだった」と強く印象に残る事柄はあまりなかったように思います。

今は二人の子供とともに、いっしょに眠ることが至福の時であり、小さかった子供も見る見る成長し、自分の眠るスペースを脅かす存在になりつつありますが、子供にも玉にならなくてもいいから艱難が訪れないよう大切に見守っていきたいと考えています。

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1999/10 さくら・もも組保護者 高野様

私の子供のころ

男の子は皆そうであったように、私も乗り物が好きでおもちゃもこれらの物が多かったように思います。
ただ実際に乗ることはほとんど無く、それらがどんな乗り心地で、窓から見える景色はどのようなものかは想像するほかにはありませんでした。

ある時期、外で遊ぶ際には必ずブリキ製の飛行機を持ち歩いており、それも大事に抱えた姿の写真が何枚か残っています。 また、うちの中ではプラレール遊びであり、少ないレールでいかに多くの組み合わせを作り出せるかの工夫が楽しく思えました。
友達と遊ぶときには、実際に電車に乗ったときに感じた動きを細かく再現させてみせるのが腕の見せ所でした。

私の父も電車に興味があったのか詳しく知っておりいろいろ教えてもらいましたが、その私が今度は息子に聞かれ答えてあげる。おもしろい縁を感じます。

仕事では遠方へ出張の機会が多く、いろいろな乗り物に乗ることがあります。
目の前に広がる車窓からの景色が、昔想像していた景色の記憶と重なったとき一瞬子供の頃の私に戻った気がしました。

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1999/09 もも組保護者 野村様

私の子供のころ

私は幼稚園になかなかなじめなくて、一人で幼稚園から脱走し、母に思いっきり殴られたのを記憶しています。
今思えば自分がひっこみじあんで、友達もなかなかできなかったからだと思います。

自分の子どもは大丈夫かと心配でしたが、毎日「いってきまーす」の声を聞くたびに自分の時代に鷲宮保育園があったらなーと思っています。

子どもの頃の遊びは、カブト虫とりやコマ遊びなど外での遊びが中心でした。暗くなるか腹が減らない限りは家には帰ってこなかったですね。

ひっこみじあんだった私が、いつからか目立ちたがりやになり、友達もいっぱいできてかけがえのない財産だと思っています。
子どもにも一人でも多くお友だちをつくって、いっぱい財産を増やしてほしいです。

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1999/08 もも組保護者 古屋様

私の子供のころ

夏になり雨とともに雷がやってくると子どもの頃のある体験を思い出します。

自然に恵まれた栃木県那須連山の麓でセミがうるさいほど鳴く中を朝から暗くなるまでひたすら何も考えることなく遊び回っていた頃、夏の風物詩とも言える雷は僕らの遊びを中断させては適当なところに落ちて行くという毎日でした。
その雷が夜に来て電柱に落ちたときは、閃光とともに電線を伝って停電となっていた家庭の電球を一瞬灯すという凄さで、落雷の地響きとともに体を震わせるほどでした。

その頃は、どこの家庭にも蚊帳(蚊帳の中に入っていると雷が落ちないといわれている)があり、その中で恐怖感とともにわくわくどきどきしながら雷が去るのを待っていたものでした。
蚊帳は本来の機能の他に子どもにしてみると秘密の隠れ家という異空間を提供してくれたのでした。

近年は、電気蚊取り器の登場や生活環境の改善とともに僕らの秘密の隠れ家はどこかに姿を消し、雷は遠慮がちに通り過ぎていくようになった気がします。

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1999/07 つくし・さくら組保護者 窪田様

私の子供のころ

子供の頃、家の都合でよく転校した。
多い年には1年に2度もした。

その度に新しい集団の中に入るときの緊張と不安のようなものを味わった。
しかし、転校の回数が増えてくると「今度はどんな友達がいるのかな」といった期待のようなものもふくらむようになってきた。もちろん新しいクラスになかなかなじめずに苦労したことや、いじめのようなものもあった。
特に女子からの意地悪はこたえた。

でもその中で集団のルールを学び、楽しいときには友達と共に喜び、苦しいことやつらいことも友達に相談しながら、時には助け合いながらそれを乗り越えることを自然に身につけていった。

仕事から帰って、娘とお風呂に入りながらよく話をする。
「今日は何をして遊んだの」
「きょうは○○ちゃんとあそんだよ。それでね・・・」
話を聞きながら、子供の世界は今も昔も変わっていないなと思う。
日々の子供の成長が楽しみである。

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1999/06 うめ組保護者 西條様

私の子供のころ

私が幼年期を過ごした時代は、ちょうど高度成長期のはしりで、科学が自分たちの生活に直接影響しはじめた時代でした。

今でも我が家にテレビが始めて来た日を鮮明に覚えています。
当時のテレビは、鎮座しているという表現がぴったりの存在で、なかなか子供はさわらせてもらえず、子供なりにテレビを見るということは大変なことなのだと感じたものです。
しかし、そのような雰囲気とは別に、そこに映し出されるものすべてが私には驚きでした。
その不思議な箱の中には、鉄腕アトム、怪獣ブースカ、鉄人28号等、私をわくわくさせるすてきな仲間たちが住んでいると信じて疑いませんでした。よく箱の中を覗いては、ぼーっと光る真空管を眺め、あの中に彼らはいるんだろうかと考えたものです。

また、当時は今と違い、子供が大勢いて遊び相手に不自由しない時代でした。
私自身は、友達と遊ぶ時間を割いてまで幼稚園に行くことに納得がいかず、母親に促され渋々通いはじめました。

そんな幼稚園でのある日、どういう理由かは忘れましたが、みんなで砂場に巨大な山を作ることになりました。
みんなが黙々と造る中、私は砂場の片隅にうち捨てられたヨーグルトの瓶に目が止まりました。
おそらくテレビを通して科学というものの影響でしょう、それを拾い上げ、

「みんな。これはうるとらばくだんなんだぜ。これをおやまにうめるとばくはつするんだぜ。」

と叫んだのです。
この私の唐突な発言はみんなに熱狂的に受け入れられました。
先生があきれて立つ側で、哀れな山は、私の予言通り跡形もなくなりました。

最近、私の娘は目をきらきらさせて、とんでもないことを言うようになりました。
そんな娘の顔を見ながら、あの時の自分の顔もこんなだったのかしらと思うのです。

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1999/05 うめ組保護者 橋本様

私の子供のころ

娘の年と同じ頃ですと、幼稚園に通っている頃になりますが、私は幼稚園に入園し、通い初めて数ヶ月で行かなくなり、中途退園してしまったようです。
なぜ行かなくなってしまったのかは、覚えていないのですが、うっすらとした記憶だと、何かいたずらか叱られるようなことをして、どこかに閉じこめられたようだったと思います。その場所が狭かったのか暗かったのか覚えていないのですが、とても怖かったと思います。

小学生の頃の遊びは、めんこや(そのころはパーと呼んでいたような気がします)ビー玉、またはカン蹴り、馬飛び、ベーゴマ(鉄のコマ)等で遊んでいたようです。後者は主に高学年だったと思います。

ファミコンのようなゲームはなく、TVも白黒世代の時期だったと思われ、外で遊ぶことが多かったようです。
近くの駄菓子屋に行っては10円や5円で飴やお菓子を買ったり、駄菓子屋のおばさんと話をしたりするのが好きだったと思われます。
その駄菓子屋に、凧糸に大小の飴がいっぱいつながっている飴が売っていたと思います。 束になっている凧糸をたどって飴を買うのですが、大きな飴に当たったときの喜びは最高だったと思います。

そんな子供の頃からわがままで、がんこで、いたずらで、そしてギャンブルに興味を持っていた子供だったと思います。そのまま大人になってしまい、今では二児の父です。我が子には好きなことをさせてやりたいし、意見を尊重したいと思います。

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1999/04 たんぽぽ組保護者 松永様

わたしの子供のころ

学校の帰り道は小学生にとって最大の遊び場であった。
雨の降る日、靴を脱ぎ、アスファルトの舗装道路をハダシでペタペタ歩くのは爽快な気分であった。
数人の友達とジャンケンをして、負けたヤツがカバンを持ち合う遊びも楽しかった。
またあちらこちらへの寄り道は胸おどる格別のものがあった。
公民館の裏に林があった。
その中の一番の巨木、椎樫は、秋になると実を落とし、それをほおばった時のあの苦みは懐かしい。
辺りのキノコのいくつかは、もしかしたら食べることができないかも知れない。
八幡神社の森も気迫迫る神秘に満ちた世界であった。
数歩の石段、 メートルほどの石畳、その先の本堂。
どんなに遠くに思えたことか。
石畳は杉の木に覆われ、昼なお暗く一気に駆け抜ける以外方法がなかった。
今にも蛇が頭上へ落ちてきそうで気味悪かったのだ。
烏瓜が黄色く色づく季節には、ジャンパーの袖の中に手を突っ込み、鳥居から顔を背け急いで帰ったものだ。

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