薫藤園の暮らしから4 – 誕生会 他 令和元年春~夏

薫藤園の楽しい暮らし

誕生会 7月

7月生まれの利用者様のお誕生会を東棟では7月28日に行いました。
『チコちゃんに叱られる』を真似たクイズや、『触って当てようクイズ』など楽しく遊んで頂き、おやつはイチゴ牛乳で乾杯した後フルーツヨーグルトを美味しそうに召し上がっていらっしゃいました。その時のプレゼントは今も大切に使っていただいております。
「ありがとう」と言って頂いた輝かしい笑顔。こちらの方こそ元気を頂きました。ありがとうございました。
ユニット型 石部介護士

7誕生者の方は、5名いらっしゃいました。今回は皆様に季節を感じて頂けるように、人気のある夏野菜を用意し誕生者の方々が「♪箱の中身は何でしょう♪」ゲームに参加されました。恐る恐る箱の中に手を入れると周りの方よりヒントをもらい、声援を受け「ゴーヤ!なすび!きゅうり!」等正解されていました。皆様「やったー」と手を上げるほど喜ばれ、より一層親睦が深まった誕生会となりました。
従来型 清水職員

誕生会 6月

6月の誕生者4名の方々に、思い出の写真が飾られた色紙を1人ひとりに手渡しお祝いの言葉を述べると、嬉しそうに笑みをうかべていました。
今回、実習生も一緒に参加され手作りのカード(動物・食べ物)を合わせる「神経衰弱」を行いました。誕生者の方々にも参加して頂くと「難しそうね」と言いながらも、同じ絵がらを合わせると大喜び大変盛り上がり楽しい誕生会となりました。
従来型 米倉介護士

ユニット西棟で6月生まれの方の誕生会を開きました。ハッピーバースデーを歌ったり、手作りパフェを食べたりして、皆さんでお祝いしました。パフェを美味しそうに召し上がっていただき、嬉しくなりました。
これからも元気に、来年も再来年も毎年楽しく過ごして下さい。おめでとうございます。
ユニット型 藤井看護師

誕生会 6月

「お誕生日おめでとうございます。」とお声をかけると「ありがとう。」とにこにこされとても嬉しそうでした。デイサービスを利用されている奥様もご一緒に、娘様からのケーキを前にお誕生日をお祝いしました。お二人の写真をパチリ、いい記念になりました。皆様へは、しっかりとした言葉でお礼をのべておりました。これからもお元気でお過ごし下さい。とてもあたたかい素敵な誕生会でした。
ユニット型 大橋介護士

5月19日に5月生まれの利用者様の誕生日会を行いました。
甘くてこうばしい香りに「何の匂いだ?」と不思議そうにホットプレートの中を覗きにくる利用者様・・・皆さんで柔らかくして潰したさつま芋を割り箸に付けて焼いて、ピーチティーで「お誕生日おめでとうございます」と、乾杯。
最後に慣用句問題を皆さんで悩んだり、笑ったりしながら楽しみ誕生会は終わり。また皆さん一緒におやつを作りましょうね。
ユニット型 黒田職員

5月の誕生者はお一人でしたがプレゼント(写真が飾られた色紙)を手渡すと嬉しそうでした。職員によるギター演奏で懐かしい童謡を皆様と一緒に歌ったり、グラスの中に色水を入れドレミグラスで演奏「富士の山・きらきら星・ぶんぶんぶん」等誕生者の方も参加され盛り上がりました。グラスの音色に感激し、楽しい時間を過ごされたことに本人大満足されていました。
従来型 寺山介護士

身近なウォッチング 29

加羽ケ崎宝光院阿弥陀仏

元薫藤園災害協力会会長 間仁田 勝

加羽ケ崎の共同墓地内に「宝光院」と掲額された小さなお堂がある。
稲荷山吉祥寺宝光院と称し、真言宗智山派の寺院で、上羽生正覚院の末寺であった。寛永14年(1637)、島原の乱が勃発、派遣された板倉重昌は戦死、ついで松平信綱が派遣され城を攻略、乱を平定した。
幕府は、キリシタン禁制のため、寺院から檀徒の宗門人別帳を強制的に提出させる措置をとった。宗門改めの強化であり、これにより、国民全部がいずれかの寺に属すこととなった。
人々は、新しい集落を作ると、集落民のよりどころとして神社を勧請していたが、寺院を設けている村は少なかった。
そこで、人々は、荒廃している寺を再興したり、新たに神社に付随して設ける別当寺、いわゆる神宮寺を新設したりして対応した。
特に、島原の乱を平定した松平信綱が忍藩主となったことから、羽生・加須・行田地域の宗門改めは厳しく励行された。宝光院も、創立年代は定かでないが、墓地内にある最も古い碑が江戸時代初期の寛文7年(一六六七)であることから、この頃に建立されたものと思われる。昭和58年(1983)に霊園整備とともに、墓地本堂の建設が行われた。
それに合わせて、阿弥陀仏の修復が、昭和63年から平成元年にかけて行われた。その折、阿弥陀仏の台座に「造立 阿弥陀、願主 東光坊・七郎左衛門・六郎左衛門・大右衛門・彦左衛門・江本・道祐、道清為十三季忌也、為現世安隠後世善処也、〇〇〇季壬申九月五日」と記されているが見つかった。
年号部分は判読不明であったが、専門家によると仏像の作風及び干支から宝暦2年(1752)と推測された。
江戸時代末期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、「新義真言宗、上羽生村正覚院の末なり、本尊不動を安ず」とあるが、明治3年(1870)の文書には「本尊阿弥陀如来」と記されている。
いつのまにか、本尊が不動明王から阿弥陀如来に代わってしまっていた。こんな話がある。寛政2年(1790)、陸奥泉藩(いわき市)藩主の本多弾正大弼忠壽(ただかず)は、飢饉の折、間引きを禁じて小児養育料を支給するなど民生に力を注いだことから、松平定信の目にとまり若年寄に抜擢された。その後、側用人、老中格と進み、寛政改革に協力、その功により、武蔵・上野の内5千石を加贈された。その時、泉藩の領地となったのが、桑崎、小松、加羽ケ崎、秀安、須影の地であった。その後、本多家は、忠誠、忠知、忠徳、忠紀と続き、次の忠伸の時に廃藩置県を迎えた。
ある時、この藩主と領地内にある上州の豪徳寺との住職が碁を打っていた折、僧に一本とられ、「待った」と言ったところ、僧が「待てぬ」と言ったため、立腹した殿様は碁盤をひっくり返し、「よし、今に見ておれ」と、この寺に関わる寺をことごとく廃寺にしてしまったという。
その影響を受けたのが、宝光院を始めとした桑崎の全福寺、小松の小松寺、秀安の長泉寺、須影の蓮華寺であったとある。明治初年頃に廃寺となり、墓域の一部を除き、寺領は国に上地された。
阿弥陀如来は、その寿命が無限であることから無量寿如来とも、またその光が無限に十方世界を照らすことから無量光如来とも称し、仏の中で最も優れた仏様と言われている。
修復された宝光院の阿弥陀様は、ひときわ神々しい光を放ち、心打つ素晴らしい仏様である。