みずほの里 特別寄稿 第1回 「記憶に残したいふるさとの思い出」 – 令和2年春~夏

終戦後の志多見村を顧みる ― 輝いた短命中学校 ―

みずほの里 第三者委員 古峰 孝 様 

昭和20年8月15日あの悲惨な太平洋戦争は終戦となりました。
全国各地が焦土に化したなかで、埼玉県民にとって忘れもしないその「止め」を刺されたのが、14日の夜半から15日未明にかけての熊谷空襲でした。B29爆撃機の投下で八千発の焼夷弾によるその被害の実態は、死者266名、焼失家屋3630戸、被災者総数15390名という惨胆たるものでした。
当時、私はお盆で熊谷郊外にある母の実家に、母と五歳、二歳の姉弟と四人で滞在していましたが、屋並越しに炸裂する焼夷弾の火柱を恐る恐る目にしながら、親子共々防空壕に身を寄せ合いながら、逃げ込んだことを今でも鮮明に覚えております。国民学校三年生の事でした。

あれから75年の歳月が流れましたが、戦時下と終戦後の日本は、生活の基本である衣食住すべてにおいてどん底の状態でした。特に食糧難については、国民の大半が飢えに苦しみ、その日暮らしを余儀なくされ、米は食糧管理法で管理され配給制でした。
そうした中、当時の志多見村も当然その影響は及んでいます。食糧難については、都会に比して大きな困乱はありませんでしたが、戦時中、志多見松原の中にあった倉庫、陸軍被服廠(ひふくしょう)は、終戦直後占領軍が進駐し破壊作業により何棟も処分されました。村としては異常な出来事でした。
村当局の努力もあって大小数棟の建物が残され、警察立会いのもと関係機関の協議により、地元志多見村に譲渡されることになりました。この骨組みは学校の校庭に保管されますが、後に志多見中学校の校舎建築に活用されたのですから、村当局の努力が評価されたことは言うまでもありません。

終戦後の厳しい社会情勢の中にあって、新しい改革の波が各般にわたって浸透していきました。中でも戦時下の国民学校制度から昭和22年4月にスタートした義務教育である6・3制という新しい学校制度は画期的なものでした。戦後の民主化政策の一環として定められた制度でもある新しい学校制度は、いずれの自治体も学校側も定着していないため課題は山積しています。志多見村においても、新たな小学校、中学校では、試行錯誤の状況でした。特に生徒数200余名の中学校では、昇降口を教室に使用する等恵まれた環境ではなかったのです。

中学校跡地の一部 むさしの村駐車場

苦しい財政の中で、村は新しい学校制度に対応すべく子どもたちのために、中学校校舎建設に取り組むことにしました。制度開始と同年度の昭和23年1月26日が起工式ですから、いかに村が教育への熱意、積極性があったか伺い知ることができます。
校舎建設には、地元建築関係をはじめ村民総出で「地形突き」(基礎を突き固めること)に奉仕し、あの被服廠の骨組みを活用し工事は日夜進められました。そして翌年24年1月2日、表校舎と裏校舎の二棟がめでたく竣工落成の運びとなりました。新校舎は平屋建てとして自然環境へも配慮し、裏校舎は1メートル段差を上げて彩光にも工夫がなされております。校庭は校舎の東側に位置づけられ北側に砂丘を配し、校舎は松林を背に風光明媚な学校環境です。正に村当局と村民の共同作業の賜物でもあります。
この志多見中学校の新校舎は、当時としては埼玉県で最初の建設ということで注目されました。中学校跡地の一部は、現在「むさしの村」の駐車場となっています。

県北器楽コンクール優勝

新制中学校として昭和22年4月に開校し、手狭な校舎ではありましたが、様々な活動が展開されています。PTAの結成や冬期の味噌汁給食のための製麹作業も保護者の協力で実施されました。また来襲したカスリーン台風の水害地慰問も行われています。
昭和24年1月には待望の新校舎に移転しました。志多見松原の砂丘にそびえ建つ学舎の雄姿に、通学する生き生きとした生徒の様子が今でも思い出されます。そして子どもたちの各分野における素晴らしい活躍も、見逃すことはできません。 特に音楽コンクールには、器楽や合唱の部で郡及び県大会に数多く出場し、昭和26年には器楽の部県北大会で優勝しています。 昭和24年、25年の加須部会の陸上大会では、学校総合で連続優勝しています。 環境衛生優良校として郡及び県の表彰を三回受賞し、健康教育研究の推進と併せて関係機関から高い評価を受けました。

農業実習 田植

戦後における食糧難については、学校現場でも職業科の授業の中で農業実習として重要視され、生徒たちは真剣に取り組みました。 また、昭和26年2月には生徒とPTAが一体となって落穂、桑皮、どんぐり等の回収資金でピアノを購入したのも特筆すべきことでした。 昭和22年に産声を上げた村立志多見中学校は、昭和28年町村合併促進法の施行により、昭和29年5月3日、加須市立志多見中学校と改称され、更に昭和30年5月1日、加須市立西中学校志多見分校となりました。
こうして、村立志多見中学校は7年1ヶ月の短い生涯を閉じました。わずか7年1ケ月の歳月ですが、村当局をはじめ村民の熱い教育愛、それに応えた子どもたちの活躍、数多くの方々の力添えで支えられた学校でした。

口ずさんだ校歌の一節「松の丘明日の希望に胸躍る」のように、脈々と砂地に張っていく松の根の如く、その輝かしい村立志多見中学校の足跡は、永遠に消え去ることはないでしょう。


追 記

尽力なされた役職の方々(敬称略)

  • 町田立家 志多見村村長 串作
    昭和22年4月1日~昭和29年4月30日
  • 田沼勝壽 志多見中学校校長 高柳村
    昭和22年4月1日~昭和27年3月31日
  • 新井庫房 志多見中学校校長 田ケ谷村
    昭和27年4月1日~昭和30年4月30日
  • 参考文献
    加須市史(加須市)
    志多見村の歩み(公民館)
    加須西中学校沿革
    写真提供 野本新蔵氏
  • 筆者 古峰 孝
    志多見公民館 前館長
    令和2年8月吉日