お父さんの作文 2002年度

2002年度

2003/03 うめ組保護者 永島様

私の子供のころ

私は最近鷲宮町に住み始めました。私が生まれ育った蓮田市と同じように周りに水田あり、畑あり、そして豊かな自然ありと本当に子供を育てるのに良い町であると感心しております。

私の子供のころですが、帰宅時間が遅い父の代わりに、子供のしつけを任されていた母は、私と3才上の姉にいつも他愛のないことで怒っていた時期がありました。当時はなんで怒られているのかが分からず不思議に思っておりましたが、いざ自分が子供を持ち、育てていく上ではじめて自分達がなぜ怒られていたのかがわかるようになりました。

私が育ったころは、近所で年上の子供達と泥んこになりながら遊び、また、悪さをして近所の大人達に怒られる事により、社会性を身につけていましたが、今では子供達が少ない上に外で遊ぶことも少なくなってしまいました。でも、保育園ではふだんから老人会や中学生と交流の機会も多く、社会性を学ばせて頂いております。

園長先生をはじめ、諸先生方には熱心に保育に取り組んで頂き感謝しております。今後もよりいっそうご指導のほど、よろしくお願いいたします。

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2003/02 うめ組保護者 松本様

母の姿

私はここ鷲宮で生まれ育ちました。
私が幼いころの母は父とともに家で印刷業を営んでいました。忙しいときはそれこそ寝る間もなく、一生懸命働いている母の姿は今でも私の目に焼きついています。

そんな忙しい合間をぬって、私と弟二人の面倒もみてくれた母の大切さを子を持つ身となった今、ひしひしと感じ、そしてとても感謝しています。

今は印刷の仕事はしていませんが、フルタイムで働く妻のかわりに息子を園に送り迎えしたり、畑仕事をしたりと、相変わらず忙しい母です。
これからもいろいろと面倒をかけるでしょうが、いつまでも元気で優しい母でいてくれたらと思います。

最後に園長先生をはじめ、各先生方にはいろいろとお世話になり、大変感謝しております。 あと一年ちょっとですが、これからもよろしくお願いいたします。

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2003/01 うめ組保護者 南様

理想の家族像

私の両親は時々冗談のように子育てに失敗したと言っています。
私も多分そう思います。

私は良い事例に恵まれて家族を主催する立場になりました。しかし自分が親になってみて、思い通りの家族を作ることは難しいと知りました。
まだ、幸いに子どもは親の言うことを聞きます。それがかえって禍となり、理想の家族像はいつまでも頭の中で存在し続けてしまうのです。

ついさっきまでは私も子どものつもりでいました。子どもの心はよくわかっているつもりだけれど、何度も同じ事を注意していると、頭の中は温度が上昇していきます。それが冷めたときに、親の都合ばかり考えているということに気づいて反省してしまいます。

自分の理想とはかけ離れたところに一人取り残されてしまう。子育ては、きっといつかそれが自分に返ってくるのだろうから、失敗は許されないという気持ちが私のどこかにあります。

時々、自分が子どものころのことを思い浮かべてみようと試みるのですが、断片的にしか思い出す事ができません。都合の悪いことは忘れてきてしまったようです。
これからも親としての悩みも出てくるでしょうが、妻や園の先生方と手を携え、ひとつひとつ乗り越えて我が子の成長を楽しみに見守っていきたいと思います。

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2002/12 うめ組保護者 小林様

母の背中

私は男ばかりの3人兄弟の長男として育ちました。
やんちゃな3兄弟を育てた母の苦労は大変なものだったと思います。

母は私たち兄弟が幼いときは、家で内職をしていましたし、学校に入学してからは近所の工場で一生懸命働いていました。
内職の品を一つ一つ大切に扱っていた母の背中を見て、幼い日々を過ごした私にとっては、ものを大事にするということが自然と身についたような気がします。

ものがあふれ、お金を出せば何でも手に入れることができる昨今、先日手作りの竹馬を作る機会を与えていただいた保育園にとても感謝しています。子供もきっと親が竹馬を作っている背中を見て、何かを感じてくれたと思っています。

私たち夫婦と子供が訪れると、いつも元気になる母の姿を見るたび、今後もできる限り親孝行していこうと思っています。

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2002/11 つくし・うめ組保護者 伊藤様

母の思い出

私は隣町の幸手で生まれ育ちました。
幼いころは今みたいに周りに家はなく、田んぼや畑ばかりで、雨の後の水たまりや小川で全身ドロんこになって遊んだり、メンコやボール、缶けりなどで遊びました。今でも懐かしい思い出です。

学生時代バレーボールをやっていた母は、近所のママさんバレーチームに入り、日曜日になると練習に行っていました。
練習をしているときの母は、家にいるときの忙しく家事をこなす母とは違い、大きな声を出し、生き生き楽しそうに練習をしていました。

そんな母も還暦を迎え、私も二人の子供を持つ父親となりました。 これからも若く自分の生きがいを持って長生きをしてほしいと願っています。

最後に園長先生をはじめ先生方にはいろいろお世話になり感謝しております。
これからもご指導の程よろしくお願いします。

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2002/10 うめ組保護者 上田様

母の強さ

私の母は五年前、享年63歳、すい臓がんが発見されてから、たった3ヶ月で死去しました。
その時の自分の何もできないもどかしさに情けなさを感じました。

その年の8月に子供が生まれ、実家の北海道に一目でも孫を母に見せ、抱かせに帰省したことが思い出されます。
その時の母の言葉が「私と入れ替わりに生まれてきたみたい・・・」

母の強さを実感したのは北海道の実家で一人住まいになるであろう父のために、がんで病んでいるにもかかわらず洋服、下着、全自動洗濯機等一人住まいに必要な物を購入していたことです。

何事にも興味を持ちよく気づく母でした。私がいたずらや悪さをすると不思議と知っていて必ず叱られます。
子供 を見ると、ときどきそんな母が思い出されます。わが子も母のような女性に育ってほしいな、また育てねばと父として感じています。

鷲宮保育園の皆様にはいつもお世話になり感謝しております。

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2002/09 さくら組保護者 江島様

わたしの母

私の母は体が丈夫ではないのですが、デパートの仕事をして働いていました。
デパートの仕事ですから母の休日(平日)と私の休日とが合わないため、いつも日曜日の昼間は父と兄と私だけで母のいない生活環境でした。寂しかったですがいつのまにかそのような生活に慣れてしまっていたようです。

でも母の仕事が休みの日などは、学校の授業が終わると急いで家路についたものです。家に帰って母と遊ぶということではなく、昨日の出来事や今日あったことなどをしきりに母に話をしていたように思います。

私は時々体が少し疲れると子供たちに足の裏を踏んでもらったりすることがあります。足を踏んでもらうと子供からパワーをもらうのか、疲れがとれ気分も良くなります。

思えば私も子供のころほとんど毎日のように母の足の裏を踏んだりしていました。わたしの子供のころとダブって懐かしく母の姿を思い出します。

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2002/08 さくら組保護者 伊藤様

親のありがたみ

私は東京の三鷹で生まれ、小学二年生の夏休みに鷲宮に引っ越してきました。

私の幼いころの母は妹の小児ぜんそくのため、病院と家の往復であまり遊んでもらった記憶がありません。
そのため子供心にそれが歯がゆく、よく反抗しました。反抗が勉学にも現れ、小中学生では勉強しなさいと言われるとますますしなくなる悪循環の繰り返しでとても大変だったようです。その私も高校に入り、素晴らしい先生との出会いで少しずつ変わっていけた気がします。

母は父が52歳と若くして亡くしてからは、家庭と生活のため一生懸命で自分の趣味や時間をつぶして私と妹を立派に飛び立たせてくれました。
私にも子供が生まれ、少しは親のありがたみが分かるような気がします。これからも良き母、祖母として、妹そして孫を優しく見守ってほしいと思います。

最後に私も母も子供たちが鷲宮保育園での素晴らしい先生方との出会いで明るく毎日過ごすことができ、心から感謝している日々です。

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2002/07 うめ・すみれ組保護者 高橋様

わたしの母

私は未熟児で東京では育てられないと医者に言われ、ここ鷲宮に住むことになりました。 全く知らない土地で母の仕事も限られ、なかなか都合の良い職場がなかったそうです。

私自身、妻も鷲宮保育園の卒園児です。
最初は私は母と離れるのがつらくて、園に慣れるまで泣いてばかりでした。

母は常に動いており、休んでいる姿を見かけたことはあまりなかったように思います。友達の母親にあこがれ、仕事しないで家にいてと母に言ったときはつらかったと思います。
おゆうぎ会など園の行事の時も私たちのときはほとんど参加できなかったので、孫の行事をその分楽しみにしていると言っていました。

今私がこうして家庭を持ち、生活していけるのはあの時の母の強さがあってのことだと思います。また泣いてばかりいた私を明るく楽しく成長させてくれたのは鷲宮保育園の皆さんと回りの人たちのおかげだと思います。ありがとうございました。 また今後も親子ともどもよろしくお願いします。

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2002/06 うめ・たんぽぽ組保護者 小川様

大きな母

私の母は一言でいうと「大きい」です。
子どもにとって母親の存在が大きいのは当然ですが、私の母は体のサイズもとても大きいのです。
アニメに例えるなら「アンパンマン」に出てくる「でかこお母さん」というとても優しくて力持ちの象のお母さんに似ていると子供とテレビを見ながら思っています。

実際母は高校の時砲丸投げの選手として国体に出場したほどのスポーツマンであり、力持ちでした。キャッチボールやサッカーなどは父親に教えてもらうのが一般的であると思いますが私の家では、母に教えてもらうのが普通でした。また腕相撲をするとき私が両手を使おうととてもかないませんでした。今でも勝てないかもしれません。

そんな母もその大きさを気にして小学校の授業参観や運動会などはわざとゆっくりきて後ろの方にいました。集合写真などは決まって隅の方に小さく写ろうとしていました。そんな控えめな一面も子供ながら感じていました。

現在私は母より体は大きくなりました。しかし私にとっての母はいつまでも大きく、遠くから見ていてくれる存在だと思っています。

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2002/05 さくら・もも組保護者 坂本様

子供のころの思い出

幼少の頃はあまり思い出という記憶が無かったような気がします。
それは家が農家だったこともあり、春から秋までは梨の花粉付けから始まり、収穫で忙しく、遊びに連れて行ってもらえませんでした。

しかし私にとって夕食の支度などの手伝いをすることが一日の中で唯一母と長い時間を共有できたと思います。

今年から下の子も入り子供二人が鷲宮保育園にお世話になります。
自然が少なくなった環境の中ですが園では虫取りや花見、ザリガニつりなど自然の中で遊ぶ暮らしを取り入れていただいているのでなによりうれしく思います。
子供たちから一日のできごとを聞くのを楽しみにしています。

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2002/04 たんぽぽ組保護者 竹原様

わたしの子供のころ

私は中学生の頃まで広島県の山間の小さな町に住んでいました。
路線バスが朝、昼、夕方の一日三本しか通らないような小さな町です。

小学校の時には「月刊小学○年生」を買いに、姉と二人で四キロ離れた隣町の本屋に歩いて行ったものです。
特に「やんちゃ坊主」というわけではありませんでしたが、校舎の屋根に飛び降りたり、家の屋根の上に登ったり、真冬でも半ズボンで自転車を乗り回していたあの頃が一番楽しかったなぁ、と懐かしく思います。

「あなたは赤ん坊の頃にはひと月に35回も医者に通っていた」

と後に母から聞かされましたが、今風邪をこじらせては医者通いをしているやんちゃな息子が子供の頃の自分より逞しく見え、嬉しく思います。

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