お父さんの作文 2005年度

2005年度

2006/03 さくら組保護者 山口様

雪の思い出

1月21日に大雪が降りました。わしのみや保育園でも雪合戦や雪だるま作りと、みんなで楽しんだのではないでしょうか。

年に数回しか降らない雪にうちの子供も大喜びでした。私も今だからこそ雪の降る喜びがわかるのかも知れません。
私の実家は北海道の増毛(ましけ)という町にあります。冬はもちろん雪の毎日。雪合戦もやりましたが、つららでチャンバラや四十センチほどのミニスキーが遊びの中心でした。
除雪車で積まれた雪山で、ボブスレーも楽しみました。雪遊びは大好きでしたが、一方で雪しかないあきらめも心の隅にあったように思えます。

北海道を離れて十七年になりました。都会(埼玉が?)の便利さが良いか、田舎の自然が良いか考えてしまいますが、子供たちには少しでも多く自然に触れさせたいですね。

子供と一緒にスキーをしたい私にとって、今回の雪遊びでその夢に一歩近づきました。
久しぶりに雪が降ったことであらためてふるさとを思い出すことができ、嬉しかったです。

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2006/02 さくら組保護者 山懸様

お正月の思い出

私は山口県岩国市の「錦帯橋」という少しだけ有名な橋がある近くで生まれました。

もう四十年以上も前のことになりますが、そのころの遊びといえば、正月はコマ回し、凧上げと相場が決まっており、夏には山に川に、真っ黒に日焼けしながら遊びまわるという、昔の田舎の子供の生活そのものを過ごしていました。

田舎のことですからまだテレビのある家庭も少なく、同じ年頃の子供たちとチャンバラや缶けりなど、ともかく外を駆け回る遊びばかりです。 そのころのヒーローといえば月光仮面で、マントの代わりに風呂敷を首に巻いて、皆でヒラヒラさせながら走っていました。
最近はヒーローも多くて大変ですが、そのころ通った幼稚園の仮装行列の子供たちは、ほとんどが白い衣裳に三日月をつけた月光仮面だったように記憶しています。

メディアも少なく、子供たちに入ってくる情報もシンプルで、物事の考え方も善悪も今と違いずいぶんとわかりやすい時代でした。

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2006/01 うめ組保護者 渡辺様

お正月の思い出

正月といえばお年玉の思い出があります。
もらってすぐにいくら入っているかを確かめるために袋からお金を出していると、感じが悪いと親から怒られてしまいました。

親も親で、「おまえがお年玉をもらえるのはお父さんが皆にあげているからで、おまえのお年玉は親に返しなさい」といわれました。母が「冗談よ」とほほ笑んでくれても子供心には信じられず、すぐに自分の好きなものを買ってしまいました。後で欲しいものがあっても買えませんでした。

また、「爺ちゃん、婆ちゃん二人から」といわれてお年玉をもらい、後で「爺ちゃんに内緒で」といって婆ちゃんから別にもらい、逆に爺ちゃんからも「婆ちゃんに内緒で」と同じことをいってもらっていました。大人の内緒は本当に不思議でした。

お年玉の全国平均を知るようになって、「自分は少ない」と親にいうと「人は人、家とは違う」と逃げられていました。
いま、我が家の正月もマイペースです。

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2005/12 さくら組保護者 大塚様

母が残してくれた一言

私の母は短気で男勝りの女性でした。でも母としての優しさもたくさんありました。
そんな母が私たちに「後悔と踵はいつも後だ」とよく言っていました。 その理由は母が一番最初の子供(長女)を八歳の時に亡くしたからでした。

昔のことで現在のように医療品もなかったのでしょう。子供が赤痢にかかってしまい、高熱を出しました。
医者からは「どんなことがあっても氷を絶やすな」といわれ、母も寝ずの看病をしたそうです。二日目の朝、熱が少し下がったころ、疲れが出てきた母を見かねた姑さんが交替してくれ、母も三時間くらい寝たようです。ところが起きてみると姑さんも疲れて子供のそばで寝てしまっていました。母はあわてて子供の氷枕を触ってみるとまるでお湯よう、額は熱くて触れないくらいの高熱だったそうです。

それから数時間後、子供は息を引き取りました。

このとき母は、あの時自分が寝ないで看病していればよかったと深く後悔したそうです。

毎年お盆と彼岸が来るといつも話していました。その母も昨年七月に九十二歳でこの世を去りました。
私はこの「後悔するな」の言葉を母の遺言として生涯守っていきたいと思っています。

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2005/11 もも組保護者 細川様

私の故郷

私の故郷は福井県の池田町。静かな山間の町です。
田んぼが多く、春には稲が風に揺らぐ青々とした景色が広がります。また、田畑をとり囲むように山々がそびえ、田畑や私たちをやさしく包んでいるように感じます。

小学生のころには田植えや稲刈りなどの手伝いをしながら、田んぼの周りでよく遊びました。鷲宮町も田んぼが多くあるので、稲の風に揺らぐ姿を眺めたり、カエルの鳴き声を聞いたり、籾殻を焼く香りを懐かしみながら、故郷の景色を思い浮かべることが多くあります。

福井の親が秋になるとお米を送ってくれます。実家で作ったお米を炊いたご飯はとてもおいしく感じるとともに、故郷の豊かな自然と親の愛情が体と心に湧き上がってきます。

子供たちにもさらなる埼玉の自然や動物と多く接する機会をもって、元気にのびのびと育って欲しいと思います。豊かな自然は私たちをやさしく包んで守ってくれているように感じます。

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2005/10 つくし・うめ組保護者 茂田様

私の故郷

私は海と山と川に囲まれ、とても自然に恵まれているところで生まれ育ちました。
小さいころはよく海で魚釣りや潮干狩り、海水浴を楽しみ、学校が終わった後には海を眺めに行き、次の日の天気を予想するのが楽しみでした。

山登りやハイキング、山菜や昆虫を採って遊びました。山が海辺の近くなので、山の側面を掘ると化石がとれ、友達と集めた記憶があります。また、夏の夜に家の窓を開けていると、家の中にカブト虫やクワガタが飛んできました。このように豊かな自然と触れることができたので、自分の子供たちにも体験させてあげたいと思い、たびたび故郷に連れて行きます。

しかし、私の故郷も次第に変わり、昔のような自然も少なくなりました。子供たちに昔の姿を伝えながら自然に触れ、自然の大切さを教えていき、何かを感じてくれればいいなあと思っています。

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2005/09 うめ組保護者 海老原様

私の子供のころ

私の故郷は大宮の郊外です。
あのころは今みたいにカード遊びや電子ゲームなどありません。子供の頃はいつも外で遊んでいました。

学校から帰ると宿題をすませ、必ず外に行ってました。外で遊んでいるとだんだんと友達が集まってきて、気がつくとみんなで缶けりやケードロをしていました。
夏になると夜集まる約束をして虫取りに行ったり、星の観察といって公園で一時間くらい寝っ転がって空をただボーッと眺めていたりとか、とにかく戸外で遊ぶことが多かったと思います。これといって思い出があるわけではないですが、あのころはとても楽しかったなあと思い出します。

大人になり、親になり、忘れかけていたあのころの戸外遊びや思い出を、今度は子供たちと一緒に作っていけたらと思います。

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2005/08 すみれ組保護者 岡田様

なつかしい思い出

私は群馬の農村の生まれで、私が三・四才のころまで多くの動物・家畜に囲まれて過ごしました。

祖父母を中心に農業をやっていた関係で、当時はイヌ、ネコをはじめ、牛、豚、ヤギがいました。今でも特に印象に残るのはヤギの存在です。
母は、私を産む前後、体調が悪く、母乳がでませんでした。当時、粉ミルクは高価でもあり、乳を搾る目的でヤギを飼い、毎朝祖母がヤギの乳をしぼり、その乳を飲んだようです。

私が少し大きくなると、ヤギにワラを食べさせました。そのヤギが死んでしまったとき、祖父が畑に大きな穴を掘り、お別れをしたことを鮮明に覚えています。身近な存在の「死」を初めて経験したように思います。

今では祖父母も亡くなり、実家には動物はいませんが、記憶だけは残っています。

最近、日常的に生き物とふれ合う機会はなかなかありませんが、子どもたちには鷲宮保育園でいろいろな経験を通じて「生命の尊さ」を学んでいって欲しいと思います。

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2005/07 もも組保護者 吉田様

私の思い出

私は鹿児島県で生まれ、隣町の幸手市で育ちました。

子供の頃は学校から帰るとほとんど家にはおらず、外で遊ぶ毎日でした。公園や広場で友達と鬼ごっこをしたり、川で小魚をとったり、ときにはヘビを捕まえたり、とにかくたくさんの思い出があります。今では川に魚やザリガニも少なく、田んぼにカエルやおたまじゃくしなども少なくなった気がします。

家でゲームなどをする子供が増えておりますが、野球、サッカーなどの運動やカブト虫、クワガタ捕りなどもまだまだできるところはたくさんあります。

私には娘と息子がいますが、少しくらい先生方やお母さんに怒られても、今ある環境を大事にしながら、外へ出ていろいろな経験をして強くて丈夫な子供に育って欲しいと思います。

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2005/06 うめ組保護者 出井様

母のお弁当

母の思い出はたくさんありますが、料理が得意な母でしたので、お弁当の思い出があります。
母が作ってくれたお弁当で一番好きだったのは三色弁当です。面積の半分を占めるのが薄茶色の鳥そぼろ、残りのうち三分の二が黄色の炒り卵、最後が緑色のグリーンピースかサヤインゲンの細切り、たまには気まぐれで四色目の赤でんぷんか紅しょうがも入ります。タコソーセージや鳥から揚げも嬉しいのですが、三色弁当は見た目の美しさが最高です。

ふたを開けたときに見える派手な色彩、鳥の匂いふわっとしていて、とにかく感動が他のメニューとは異なり、食欲が一気に加速します。
鳥そぼろの味付けは薄めですが、味がご飯にしみ込んでいて美味しく、ご飯が冷めていてもまったく気にならない。裏一面がご飯なのでボリュームも満点です。

今でも妻の作ってくれる鳥めし弁当が好きなのですが、母の手作り弁当の影響大です。

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2005/05 うめ組保護者 濱田様

私の子供の頃

私の子供のころはいつも外で遊び回っていたのを覚えています。
近所の友達と秘密基地を作ったり、家の回りが田んぼだったせいか裸足になって泥んこになりながら、ザリガニ釣りやいろいろな虫を捕ったり、夏になれば朝早く起きてカブトムシを捕りに行ったりしました。

女の子にしてはやんちゃで活発な方で、時には木登りに失敗して落ちて大けがをしたことは記憶にずっと残っています。冬でも公園でほとんど毎日のように遊んでいました。

そういう環境の中で育ったせいかケガは絶えなかったけど、カゼひとつひかなかったと母から聞きました。ふだん忙しくしている両親も休みの日になれば必ずといっていいほど、どこかに連れていってくれて楽しい思い出ばかりです。

親になった今、我が子にも自然に触れ合う機会をたくさん作り、のびのびとたくましく成長してくれることを願っています。

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2005/04 もも組保護者 鈴木様

私の母

私は男ばかり四人兄弟の末っ子として、福島県西郷村に生まれました。
農家で家畜がおり、林業もやっていました。父もそうですが、母は朝から晩まで働いていました。小さい体のどこにそんなパワーがあるのかと思うほど、病気もせず働いていました。

子供ころは何か悪さをすると古い土蔵に入れられ、よく怒られたものです。一方小学生になってもいっしょに寝て、たくさん甘えさせてもらいました。
田舎なのでおやつといっても今ほど気の利いたものはありませんでしたが、母の作ったむしパンやジャガイモのみそ油いためなどはおいしくて、私の記憶に強く残されています。

レジャー施設に行ったり旅行をしたりという記憶はあまりなく、それ以上に大切なものを受けて育った感じがします。見えるものより見えない愛情をより多く注いでもらったのだと思います。

現在、子育てする妻を見ると、母に対する自分の一番古い記録よりもさらに古い記憶を呼び起こされます。
「子を持って知る親の恩」とはこういうことなのかもと思うこのごろです。

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