お父さんの作文 2007年度

2007年度

2008/03 すみれ・さくら組保護者 うんの様

子供時代の思い出

私のふるさとは茨城県那珂町です。
子供の頃の思い出といえば、雨が降っていない日は毎日母が自転車で約三キロもある道のりを保育園まで送迎してくれたことです。
途中寄り道をしたりして、季節の移り変わりなど自然を見たり、踏切や交差点など危険な場所などを教えてくれました。現在親となった私に母のまねが少しでもできているのかどうか…。

自然といえば夏は毎日のように朝早く起きてカブトムシやクワガタムシを捕りに行きました。最近はカブトムシがいるところは必ずスズメバチが一緒に蜜を吸っていて、とても捕りにはいけなくなりました。

最近子供がなわとびを練習していると聞くと、私も保育園のころはなかなか上手に飛べず一回飛ぶたびに座ってしまい、先生に「あっ、カエルさんがいるよ」といわれ「どこどこ?」と自分の足下を探したら「カエルさんみたいな飛び方だよ(笑)」といわれたことを思い出し、一人心の中で苦笑いしています。

最後に家庭ではなかなか体験できないようなことを行事やイベントを通じて子供に経験させていただき、保育園の先生方には本当に感謝しております。

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2008/02 さくら組保護者 ほどやま様

私の子供時代

私が子供の頃は携帯電話やパソコン、テレビゲームなどは当然普及しておらず、もっぱら公園や広場などで近所に住む友達と野球やサッカーなどをして遊んだものです。

当時は今ほど住宅は建っておらず、公園に限らず広い敷地はすぐに見つかりました。それにボールやバットなどがあれば毎日のように日が暮れるまで楽しく夢中で遊んでいたのを覚えています。

今のように物に溢れ、何不自由のない生活に比べると決して豊かな時代とはいえませんが、そんな遊びの中にも学んだことはたくさんあります。どんな遊びにせよ、これはいつの時代も同じだと思いますが、人と人との関係を保ちながら感謝、協力、思いやりなどたくさんの経験が自分の能力と人格を高める方法だと思います。

まだ幼い我が子にもこれからいろいろな経験を重ねながら、結果はどうであれ何にでも努力することを心の糧として力強く成長していってもらいたいと思います。

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2008/01 さくら組保護者 細川様

祖父の教え 米粒の尊さ

私の実家は福井県の池田町です。
山に囲まれた盆地で、山間に田畑が広がる自然豊かな田舎の町です。

父親は建具製造の職人です。兼業で農業を営み、水田で稲作も行っています。私も春には水田で稲の苗を植えたり、秋には鎌で稲刈りを手伝ったりしました。

子供の頃、食事の時にご飯粒を茶碗に付けたまましておくと、祖父から

「ご飯の一粒一粒には仏様が宿っているのだから、一粒もむだにしないで食べなさい」

と叱られたことがありました。
農家なので、米を作る苦労と大切さを知って欲しいとの願いだったと思います。それ以来、今でもご飯は一粒も残さず食べるようにしています。

田舎に帰省した時には、美味しいご飯が一番のごちそうに感じます。子供たちにも田植えや稲刈りなどの体験を通して、米作りを知って欲しいと思います。
田舎から送ってもらったお米で美味しいご飯を食べると、故郷の両親の愛情を感じます。子供たちにもご飯のおいしさがわかって欲しいと思います。

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2007/12 もも・さくら組保護者 末正様

私の子供時代

私はここ鷲宮の地で育ちました。
幼少時代は友達とサッカーや野球に夢中になり、また時にはファミコンなどをして遊んでいました。

特に印象に残っているのは、小学校時代サッカースポーツ少年団に入団していた時期のことです。試合となると必ずおいしい昼の弁当を用意して、母は友達のお母さんと仲良く一生懸命応援してくれたもので、とてもうれしい思い出になっています。

私も子供のイベント事にはできるだけ参加していい思い出を作りたいと思います。
しかし実際には父親になり、改めて実感するのですが、子育てはなかなか大変だということです。子を持って知る親の恩とはよく言い得ています。
私は両親にあたたかく見守ってもらい育ちました。私ものびのびと子供たちが育ってくれるよう見守っていきたいです。

最後に保育園でザリガニ釣りやドングリ拾いなど自然にふれる遊びを経験させていただいて、とてもうれしく思います。これからも先生方よろしくお願いします。

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2007/11 つくし組保護者 篠崎様

母との思い出

幼児期に私の父母は常勤で働いていたため、思い出といえば、祖父や祖母との思い出ばかり。

唯一母とのできごとで鮮明に覚えていること、それは母が私を連れて家を出ようとしたときのことです。父母の激しい口論の末、母が私を連れて家を飛び出したのです。駅に歩いて向かう途中、母は何も言わず、いやがる私の手をぐいぐい引っ張っていきました。その間、幼いながらにもう友達に会えなくなる!と思い、悲しくてたまらなかったことを覚えています。
結局は父が駅まで迎えに来て、そのまま無事に家に帰れたのでした。今となっては笑い話ですが、当時の私には衝撃的な事件でした。

悲しかったから鮮明に覚えているのです。大人になって、あのときの喧嘩の内容を改めて聞いたことはありませんが、たぶん両親は何も覚えていないでしょう。
自分が親になってみて、あのようなことは子供に絶対に経験させないよう心がけています。夫婦仲良くして楽しい思い出をたくさん作ってあげたいものです。

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2007/10 さくら組保護者 木村様

親から教わったこと

私は県北熊谷市出身で一人っ子です。
子供の頃は借家に住んでいて、ミルクが買えない時もあった生活をしていたと両親から聞きました。しかし両親は塾を開業し、それが繁盛し分校を三校まで持てるまで頑張り、徐々に生活も安定しました。

私は苦労を経た両親から物を大切にする事、人に対しての優しさ、礼儀やあいさつなどを教わりました。特にあいさつに関しては厳しくいわれたのを覚えています。「ありがとう」「ごめんなさい」「おはよう」などの言葉は当たり前ですがとても大切です。
私の娘二人も含め、今の子供たちはその当たり前の言葉が疎かになっている気がします。あいさつは人間関係の基本です。あいさつをしてもされても心が気持ちのいいものです。

その大切な言葉をこれからも園の先生方と一緒に娘達にしっかり伝えたり、教えていきたいと思っています。

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2007/09 すみれ組保護者 栗原様

子供の頃の遊び – 父 –

ゲームといえば「ニンテンドーDS」や「PSP」を思い浮かべると思いますが、私の子供時代はなんといっても「ファミコン」でした。

「スーパーマリオ」ブームがあったのは小学四年生のときです。ファミコンを持っているのはクラスに1~2人しかいなかったので、一部の「金持ち」な友達の家にみんなで遊びに行って、ファミコンを見せてもらいました。
自転車を連ねて1人の家に20人近くが押しかけるわけですから相当迷惑だったと思います。一台のファミコンをみんなで見つめ、交代で遊ぶ、そんな時代でした。

私がファミコンを手に入れたのはブームの半年後。大変な品薄で父が出張帰りに大阪から買ってきてくれたのでした。それから数ヶ月間、家に友達が詰めかけたのは言うまでもありません。人数はだいぶ減っていましたが。

今は一人一台ゲームを持つのが普通になりました。ゲームのスタイルも変わり、ペン入力もできるようになりました。私の三才の娘も「DS」のパズルが大好きです。隔世の感がありますね。

子供の頃の遊び – 母 –

私は幼い頃を現在のさいたま市岩槻区で過ごしました。
今はわかりませんが、当時は住宅地のすぐ近くにまで自然があふれていて、毎日暗くなるまで遊んでいたのを思い出します。

ちょうど団塊ジュニア世代。声をかければすぐに五人や十人の子供が集まりました。ガキ大将的な存在の子もいて、ドングリ・椎の実・ノビルのある場所やイナゴやザリガニの捕まえ方なんかは遊びの中で大きな子に自然と教わりました。

夢中になったのはザリガニ釣り。
近くの用水路にはザリガニ穴が無数にありました。「よっちゃんいか」をタコ糸に付けて穴のそばに垂らし、出てきたところを網ですくうのです。スリル感がたまりませんでした。
ちなみに基本的にキャッチアンドリリースでした。

今は少子化。保育園に行かなければ年齢の近い友達を探すのにも苦労します。防犯にも気をつけなければならない時代です。寂しいものだと思います。

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2007/08 たんぽぽ・もも組保護者 持村様

子供時代の思い出

私の子供時代はテレビゲームも珍しく、子供達は皆外で遊ぶことが多かったです。

私は男二人兄弟であったため、何をするにも兄の後ろについて遊んでいました。
魚を捕りに用水路に行ったり、クワガタムシを捕りに堤防付近へ行ったりと、かなり危険な場所にも行っていた気がします。

最近ではクワガタムシの捕れる場所も少なくなって、今の子供達は少しかわいそうです。

母は編み物教室に通っていて、依頼でセーターなどを作る内職をしていました。
今思えば手の込んだすばらしいセーターを私にも編んでくれることがあったのですが、子供だった私はあまり喜ばなかった覚えがあり、本当に申し訳なかったと思います。

父は公務員でたいてい早い時間に帰ってきてくれたので、夕方の散歩やお風呂にも一緒に入ってくれました。

私も子供を持つ親になり、ありがたさと大変さが少しだけわかるようになり、自分の親に近づけるよう努力したいと思っています。

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2007/07 すみれ組保護者 服部様

子供時代の思い出

三姉妹の末っ子だった私は、体が弱くいつも学校を休んだり早退したりする子供でした。
もちろん元気なときは近所の友達とよく遊びました。外ではおままごと、缶けり、探検ごっこ、家の中では人形遊び、お絵かきなどをして遊びました。

パンダが来日し、日本中がパンダブームに沸いたときは、私も大きなパンダのぬいぐるみを買ってもらい、とてもうれしかったのを覚えています。

母は洋裁が得意で私の服は手作りでした。遠足や修学旅行などに合わせてワンピースなどを良く縫ってくれました。

実家は米とぶどうを作る農家でした。父は朝早くから夕方暗くなるまで働いていました。母も同様です。
そんな両親もすでに亡く、父も母も思い出の中に生きるのみとなりました。
働いて、働いて、娘三人を育ててくれたのだと思うと、今更ながら感激の念でいっぱいになります。

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2007/06 もも・さくら組保護者 島田様

子供時代の思い出

私は生まれも育ちも鷲宮で、私の家庭は兼業農家でした。

父親は毎日会社へ、母親もパートで、しかもほとんど毎日フルタイムで働いていました。農作業は会社勤めが終わってから行っていました。
今の家庭ではそんなに珍しくないのでしょうが、夕食は夏は八時、冬は七時からでした。いわゆる明るいうちは働く、ということです。近所中が皆勤勉であり、これが普通でした。

私は親の働いている姿を見て育ちました。そして遊びといえば、家の外ですることであり、友達とカンけりをしたり魚つりをしたり、駄菓子屋でアイスクリームを食べることでした。

最後に私が覚えている一番の楽しみは、父親が出張したときに買ってくる火花が出るゼンマイ仕掛けの戦車と、南国に行ったわけでもないのに買ってくるパイナップルでした。本当にうれしかったです。

懐かしい子供時代の思い出です。

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2007/05 すみれ組保護者 宇野様

私の子供時代

私は東京の下町足立区に四人兄弟の三番目に生まれました。
当時の足立区は今と違い、周りには何もなく広い原っぱで毎日走りまわっていました。また、近くの泥沼にザリガニやカエルを釣りに行ったり、畑で手打ち野球などをしたりして、いつも泥だらけになって遊んでいたのを懐かしく思います。
そんな私を見て母は怒るでもなく「もっと遊んできなさい」といってくれていました。

ある時など私が空き地にあった大きな金庫で友達と遊んでいて金庫の中に閉じこめられて大変な事件になりましたが、母はたいして慌てるでもなく「男の子はそれくらい無茶な遊びをするくらいでちょうどいい」といい、気にも止めていなかったので驚いたのを覚えています。

そんな私も今は父親となり、娘の花音と日々遊んでいるときにふと昔の母の言葉を思い出すようになり、今の自分はちょっと「あれはダメ」「これはダメ」と少し細かくいい過ぎかな?とも思います。やはり子供は守るべきルールはきちんと教えながら、生き生きのびのびと毎日を過ごして欲しいと思います。

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